グラグ
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ウラル山脈西側のペルミにあったグラーグ(強制収容所)Perm-361923-1961年に存在したソビエト連邦内のグラグの場所[注釈 1]。1940年時点で53か所のグラーグ、423か所の労働コロニーが設置された[1]GULAGのマーク

グラーグ[2]、グラーク、グラグ(ロシア語:ГУЛАГ, ГУЛаг、ラテン文字表記:GULAG・GULag・Gulag、ロシア語での発音(IPA):[???lak]、イギリス英語での発音:[??u?l???]または[-la?])は、ソビエト連邦強制労働行政機関 Гла?вное управле?ние лагере?й (ラテン文字表記:Glavnoje upravlenije lagerej)の頭字語(略語)であり、「強制収容所の管理主任」を意味する[3]。グラーグとは労働収容所管理総局のことだが、強制収容所一般も意味する[4]

レーニンによって設置され、スターリンが支配した1930年代から1950年代にかけて頂点に達した[5]

グラーグには総計1800万人?2500万人が収容され[6][7]、1930年から1953年の期間での推定死亡数は、少なくとも150万から170万人[6][8]、多い見積もりでは600万人という推計もある[6][7][8][9][10][11]
概説

ソビエト連邦内務人民委員部(NKVD)、内務省(MVD)などにあった強制労働収容所・矯正収容所の管理部門のこと。「収容所本部」(Главное управление лагерей, Glavnoe upravlenie lagerej)の略から来ている。 収容所そのものはラーゲリ(лагерь, lager')と呼ばれるが、ソ連国外では収容所を含めてグラグと呼ばれることが多かった。グラーグ(GULAG)のラーグ(LAG)とは、ラーゲリのことである[4]

GPUが設置した当初の名称は、Главное управление исправительно-трудовых лагерей,ラテン文字表記:Glavnoje upravlenije ispraviteljno-trudovyh lagerej、「矯正労働収容所の管理部門」だった[3][12][13]。日本語では矯正労働収容所中央管理局とも訳される[14]

強制収容所は、十月革命でソビエト政府を成立させたウラジーミル・レーニンの下で政府機関によって作られた[15][16]。この用語はまた、ヨシフ・スターリン時代の大粛清以降も含めて、ソビエト連邦内の強制労働収容所を指すのにも一般的に用いられている[17]

第二次世界大戦中の戦争捕虜収容所(GUPVIが管理)、クラーク撲滅運動で「クラーク」(富農)と認定された人々の収容所(「特別居住地」)、強制移住を強いられた少数民族ヴォルガ・ドイツ人ポーランド人コーカサス諸民族クリミア・タタール人など)の収容所などソ連に存在した様々なタイプの強制収容所をも指すが、これは正式にはGULagに含まれない[18][19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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