グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス・マクシムス
Cn. Domitius Cn.f. Cn.n. Calvinus Maximus
出生不明
死没不明
出身階級プレブス
氏族ドミティウス氏族
グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス・マクシムス(ラテン語: Gnaeus Domitius Calvinus Maximus、生没年不詳)は紀元前3世紀初頭の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前283年に執政官(コンスル)、紀元前280年には独裁官(ディクタトル)と監察官(ケンソル)を務めた。 プレブス(平民)であるドミティウス氏族 大プリニウスによれば[2]、カルウィヌスはガイウス・ポエテリウスと共に紀元前304年の上級按察官(アエディリス・クルリス)選挙に立候補したが、父が元執政官であったにもかかわらず、グナエイウス・フルウィウスとクィントゥス・アニキウス・プラエネスティウスに敗れた[3]。5年後の紀元前299年、マクシムスは同僚のプレブス、スプリウス・カルウィリウス・マクシムスと共にアエディリス・クルリスに就任したとする、紀元前133年の執政官ルキウス・カルプルニウス・ピソ・フルギの説をリウィウスは紹介しているが[4]、現代の歴史家はこの時代にプレブス二人が上級按察官に就任した事を疑っている[5]。 紀元前283年、カルウィヌスは執政官に就任。同僚執政官はプブリウス・コルネリウス・ドラベッラであった[6]。執政官任期の開始早々、前年の執政官ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテルが法務官(プラエトル)としてインペリウム(軍事指揮権)を所有し、ガリア人(セネノス族と思われる)と戦ったがアレティウムの戦いで敗北、戦死した。マニウス・クリウス・デンタトゥスが後任となり、ガリア人との交渉を開始した。加えて、同僚執政官のドラベッラは、ローマの敗北後に反乱したエトルリアに対する作戦の準備を行った。一方でカルウィヌス・マクシムスの役割は不明である。おそらくはローマに留まり、ガリアが侵攻してきた場合に備えて防衛準備を行っていたと想定される[7]。 デンタトゥスがセネノス族に送った使者が殺害されたとの報告を受けると、ローマはセネノス族に軍を向け、これに勝利した。続いては彼らの土地に侵攻して略奪を行った。ポリュビオスによると、ガリア人のボイイ族はセネノス族と同じ運命に陥ることを恐れ、エトルリアと同盟してローマに侵攻し、ローマの北70キロメートルのウァディモ湖まで迫った[8][7]。アッピアノスによれば、カルウィヌスが連合軍に勝利したウァディモ湖の戦いで軍の指揮を執り、ドラベッラがセネノス族領土(アゲル・ガリクス)を略奪したとする[9]。しかしながら、実際には北イタリアから戻ったドラベッラがウァディモ湖でも軍を指揮したと思われる。カルウィヌスの軍もセネノス族の傭兵で補強されていたエトルリア軍に勝利した[10]。
出自
経歴
アエディリス・クルリス(紀元前299年)
執政官(紀元前283年)