グナエウス・コルネリウス・レントゥルス・クロディアヌス
Gn. Cornelius Gn? f. -. n. Lentulus Clodianus
レントゥルス・クロディアヌスのデナリウス銀貨
出生紀元前115年ごろ
死没不明
出身階級プレブス(生家)
パトリキ(養家)
氏族クロディウス氏族
グナエウス・コルネリウス・レントゥルス・クロディアヌス(ラテン語: Gnaeus Cornelius Lentulus Clodianus、紀元前115年ごろ - 没年不明)は紀元前1世紀初期・中期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前72年に執政官(コンスル)、紀元前70年にはケンソル(監察官)を務めた。 レントゥルス・クロディアヌスは、プレブス(平民)であるクロディウス氏族 レントゥルス・クロディアヌスは紀元前115年ごろに生まれたと推定される[2]。マリウス派が政権を握っていた間はローマを離れ、紀元前82年になってスッラと共にローマに戻った。その後、クロディアヌスは政治の道を歩み始めた。おそらく、養子に入る以前に護民官を務めていたと思われる[1](このことはキケロが演説の一つで触れていれる[3])。紀元前72年には執政官に就任するが[4]、当時のコルネリウス法の規定から逆算して、遅くとも紀元前75年までにはプラエトル(法務官)を務めたはずである[5]。 同僚執政官は、プレブスのルキウス・ゲッリウス・プブリコラであった。古代の記録には、両執政官による2つの法律制定が記されている。一つはポンペイウスが独自に属州民に与えたローマ市民権を正式のもとの認めること[6]、加えて、属州民が不在時に有罪判決を出すことを禁止する法令を元老院が発布するよう提案した。もう1つは、シキリア属州でのウェッレスの住民嗜虐報告に対するものであった[1][7]。 このころ、イタリアでは、スパルタクスが率いる奴隷と剣闘士の大規模な反乱(第三次奴隷戦争)が起こっていた。この反乱は深刻な脅威であり、元老院は両執政官にそれぞれ2個ローマ軍団を与えて、鎮圧に派遣することとした。アウクシリア(補助軍)も含めると、軍は少なくとも3万人の兵士で構成されていたはずである。両執政官が協力し、当時ガルガン半島にいた反乱軍を両側面から攻撃する予定であったと思われる。このため、プブリコラはカンパニアとアプリアを経由して進軍し、クロディアヌスはティブルティーナ街道を通り、アペニン山脈を越えて進んだ[8]。
出自
経歴