グナエウス・オクタウィウス
Cn. Octavius Cn. f. Cn. n.
出生紀元前130年頃
死没紀元前87年
出身階級プレブス
氏族オクタウィウス氏族
グナエウス・オクタウィウス(ラテン語: Gnaeus Octavius、紀元前130年頃 - 紀元前87年)は、紀元前2世紀後期・紀元前1世紀初期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前87年に執政官(コンスル)を務めた。 グナエウス・オクタウィウスが属するプレブス(平民)のオクタウィウス氏族
出自
その子グナエウスは紀元前165年に氏族として初めて執政官に就任した。その子グナエウスも紀元前128年に執政官を務めた。本記事のオクタウィウスは紀元前128年の執政官の息子である[4]。この家系は代々コグノーメン(第三名、家族名)を名乗っていない。 オクタウィウスが生まれたのは紀元前130年頃と推定される[5]。 オクタウィウスに関する最初の記録は、紀元前100年末のことである。この頃ローマ内部の政治対立は際立っており、元老院とエクィテス(騎士階級)は団結して、ポプラレス(民衆派)の護民官ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスに対抗していた。結果、サトゥルニヌスは反乱を起こし、12月10日に殺害される。オクタウィウスもサトゥルニヌスと戦ったはずである[4]。キケロは、サンカ神殿の武器庫に集まったノビレス(新貴族)の名前を列挙しているが、「全てのオクタウィウス氏族」と書いている[6]。 時期は不明だが、オクタウィウスはアエディリス(按察官)選挙に立候補し、落選している[7]。しかし、執政官就任年とウィッリウス法の規定から逆算して、遅くとも紀元前90年にはプラエトル(法務官)に就任したはずである[8]。法務官時代、オクタウィウスはギリシアの東側にいた。現代の歴史学者はデロス島に彼の像が建てられていることから、そのように結論している。オクタウィウス氏族は彼の祖父の時代(紀元前160年代)から、東地中海の人々と関係を持っていた[4]。 紀元前88年末、オクタウィウスは執政官選挙に立候補する。この投票は、ローマ史上初の内戦の後に行われた、ルキウス・コルネリウス・スッラは、ガイウス・マリウスと護民官プブリウス・スルキピウスとローマで戦い、スルキピウスは死亡、マリウスはアフリカ属州に逃れた。ローマはスッラに占領された。スッラはプブリウス・セルウィリウス・ウァティアを支持したが、市民はスッラに敵意を抱いていた。このため、オクタウィウスは当選することができた[9]。同僚執政官はパトリキ(貴族)のルキウス・コルネリウス・キンナであった[10]。おそらくこの時点では、二人共にローマの政治闘争では中立であったと思われる[9]。 スッラはすぐにミトリダテス6世との戦争に出発した。出征する前に、彼はキンナから「スッラに対して好意的態度を維持する」という成約を得たことが知られている[11]。古代の資料には、これに関連するオクタウィウスの記述はない。しかし、キンナにのみそのような誓約をさせることは、余りに屈辱的であるため、スッラは双方の執政官から同様の誓約を得たとの説もある[12][13]。何れにせよ、キンナはこの誓約を破った。執政官に就任してからしばらくの後、キンナはスルキピウスの法案を復活させ、新市民を全てのトリブスの何れかに所属させた(それまでは特定のトリブスに所属することとなっていたが、この処置で新市民は従来のローマ市民と完全に同一の権利を持つこととなる)[14][15][16]。この行為は、当然ではあるがスルキピウスを支持していたマリウス派とキンナが同盟したことを意味する。続いて成立させた法案は、マリウスとその支持者のローマへの帰還を認めることであった[17]。 オクタウィウスはこの法案に反対したが、大多数の庶民だけでなく多くのノビレスの支持を得ていた。護民官は法案に対して拒否権を行使したが、キンナは多数の新市民をローマに呼び寄せ、拒否権を取り消させた。元老院はセナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム(元老院最終布告)を出し、オクタウィウスの支持者がフォルムを占拠していたキンナの支持者を攻撃したとも言われる[18]。
経歴
早期の経歴
執政官就任と最期