グドルン・エンスリン
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グドルン・エンスリン(Gudrun Ensslin, 1940年8月15日 - 1977年10月18日)は、西ドイツテロリストドイツ赤軍の創設者、指導者の一人。4人の死者を出した5つの爆弾テロに関与したことによって1972年に逮捕された。シュトゥットガルトのシュタムハイム刑務所内において死亡。法医学者は彼女の死は自殺であると鑑定している。
家族

1940年8月15日、現在のバーデン=ヴュルテンベルク州オストアルプ郡バルトロメで7人兄弟の4番目の子として生まれている。その後、家族はフライブルク近郊のトットリンゲン市に移り、彼女はその地で育った。彼女の父ヘルムート・エンスリンはルター派教会の牧師であった。父はスイスの神学者カール・バルトの影響を受けた牧師であり、ヴュルテンベルク地域で支配的であった保守的な敬虔主義とは疎通であった。彼女が逮捕された1972年、ヘルムートはシュトゥットガルト南部バート・カンシュタットにあるルター派教会(ヴュルテンベルク福音主義州教会)の牧師であった。左翼過激派テロリストの父親が教会の牧師であったため、ドイツ社会から注目を集めた。
生涯

グドルン・エンスリンは学校生徒時代、アメリカ合衆国に1年間交換留学している。1960年に中等教育修了資格であるアビトゥーアを取得。1960年から1963年までテュービンゲン大学で英語英文学、ドイツ文学、教育学を専攻する。その後、シュヴェービッシュ・グミュント教育大学に転学し、1964年、国民学校教師の国家試験に合格する。その後、当時の西ベルリンに行き、ベルリン自由大学にてドイツ文学を学んだ。彼女はドイツの作家でオルガン製作者でもあったハンス・ヘニー・ヤーンに関する博士論文を作成するためにドイツ民族研究財団からの博士論文関係奨学金を受ける。

1963年、大学の友人たち、さらに作家ベルンヴァルト・フェスパアと共に小さな出版社を立ち上げた。社名は「ステューディオ・ノイエ・リテラトゥーア」であった。そこでは原子爆弾に反対するドイツ語詩アンソロジー『死に逆らって』とスペイン人ジェラルド・ディエゴの詩集が出版されている。1965年、二人は一緒にドイツ連邦議会選挙の期間中、ドイツ社会民主党 (SPD)のヴィリー・ブラントを応援するドイツ作家集団のベルリン事務所で働いた。一方で二人はフェスパァの父親ヴィル(1962年死去)の遺した著作群の出版を試みたが、失敗に終わっている。ヴィルはナチスの熱心な支持者であり、ナチス・ドイツの焚書の際には中心的な役割を演じた人物であり、戦後もナチスの支持者であり続けた人物だったが、グドルンとベルンヴァルトらとも政治的な観点が一致していたからである[1]

1965年、妹のヨハンナがマルクス主義者の詩人であり、ルディ・ドゥチュケも加わっている新左翼系の前衛アートグループ「シチュアシオニスト・インターナショナル」(SI)に属し、カール・シュミットの研究者であるギュンター・マシュケと結婚、グドルンもベルンヴァルトと婚約する。

1966年、反ベトナム戦争、反西側を主張する冊子『the Voltaire Flugschriften』をベルンヴァルトらと出版。

1967年5月、ベルンヴァルトとの間に息子を儲ける。息子の名づけ親はルディ・ドゥチュケだった[2]。しかし、息子の誕生の前後に既にベルンヴァルトとの関係は冷え切っていた。

1967年6月2日、西ベルリンでのイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーに抗議する社会主義ドイツ学生連盟(SDS)などが主催したデモに参加。警官によるベンノ・オーネゾルクの殺害に遭遇する。その夜、SDSの大会で激しい抗議演説を行う[3]

この年の夏、アンドレアス・バーダーと出会い、恋に落ちたグドルンは翌年の1968年2月、ベルンヴァルトと息子を捨て、バーダーとともに出奔する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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