グディニャ
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Gdynia



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標語: U?miechnij si?, jeste? w Gdyni
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ポーランド
ポモージェ県
郡city county
City rightsFebruary 10, 1926
バラ22 dzielnicas
政府
 ? 市長Wojciech Szczurek
 ? 副市長Ewa ?owkiel
 ? 副市長Micha? Gu?
 ? 副市長Bogus?aw Stasiak
 ? 副市長Marek St?pa
面積
 ? 都市135 km2
最高標高205 m
最低標高0 m
人口(31.12.2021) (12th)[1]
 ? 都市243,918人
 ? 密度1,800人/km2
 ? 都市圏1,080,700人
等時帯UTC+1 (CET)
 ? 夏時間UTC+2 (CEST)
郵便番号81-004 to 81-919
市外局番+48 58
カープレートGA
ウェブサイト ⇒http://www.gdynia.pl

グディニャ(Gdynia [??d??a] ( 音声ファイル), カシューブ語:Gdinio、ドイツ語:グディンゲン、Gdingen、1939年から1945年まではゴーテンハーフェン、Gotenhafen [??o?tn??ha?fn?] ( 音声ファイル)と呼ばれた)はポーランド ポモージェ県に属する都市。古くから記録に登場する漁村であったが、新たに港湾が建設され大都市となったのはポーランド独立後の1920年代以降のことである。バルト海グダニスク湾に面しており、ポーランドの主要な港湾の一つである。

伝統的にカシューブ人が多い地域に属している。グディニャは、南に隣接するスパの町ソポト、その南にある古い港湾都市グダニスク、および郊外の町などを合わせて「三連都市」(Trojmiasto)という人口100万人以上の規模の大都市圏を形成している。
歴史?wi?toja?ska通り

グディニャの名が最初に記録に現れるのは1253年のことで、ポメレリア人(カシューブ人)の漁村としてである。現在はグディニャの一部となっているオクシヴィエ(Oksywie、オクシヴィエ文化の発見された遺跡がある)は、Oxhoftという名前で1209年の記録に現れている。この地はバルト海のグダニスク湾一帯で最初にキリスト教の教会が建った場所でもある。1380年にはグディニャの村を所有していた領主がシトー会へと寄贈し、1382年から1772年までの間グディニャは、オリヴァにあったこの地方最大のシトー会修道院に属していた。

この地はポメレリア(ポメラニア東部)と同様の歴史をたどっている。古代にはオクシヴィエ文化があり、ゴート族や後にはスラヴ人が住みプルーセン人の影響もあったが、990年ごろから1308年まではポーランドの一部に、1309年にはドイツ騎士団に征服されその領地に、1466年から1772年までは王領プロイセンの一部となっていた。1772年の第一次ポーランド分割プロイセン王国に併合され、その後長らくプロイセン王国およびドイツ帝国の一部であった。

ドイツ帝国が成立した1870年にはグディンゲン/グディニャには1,200人ほどの住民がおりカシューブ人も多く、歴代町長の中にもカシューブ人がいた。この時期のグディンゲン/グディニャは後に言われるような「単なる貧しい漁村」ではなく、ゲストハウスやレストランやカフェがある観光地で、小さな商船用の桟橋もあった。1919年ヴェルサイユ条約で、西プロイセン地方に属するグディンゲン/グディニャは新たに誕生したポーランド共和国の、いわゆるポーランド回廊に属することとなった。同時に、ヴィスワ川の河口に近い港湾都市ダンツィヒ(後のグダニスク)はポーランド領でもドイツ領でもない国際連盟の下にある「自由都市ダンツィヒ」となった。ダンツィヒ港に海運・物流を依存していたポーランドは、自由都市ダンツィヒの経済や外交に一定の権利を持っていた。
港湾都市の建設グディニャ駅(1923年開業)グディニャ市庁舎帆船競争(THE TALL SHIPS' RACES)のためにグディニャ港に集まった世界の帆船(2003年)

ポーランド・ソビエト戦争の最中の1920年、ポーランド政府はグディニャの村に大きな港湾を建設することを決定した。ドイツ人の多いダンツィヒ自由市はポーランドと対立しており、ダンツィヒの政府や港湾労働者はポーランド政府が戦争遂行のためにダンツィヒに対する経済的権利を不正使用していると感じていた。港湾労働者のストライキに直面したポーランド政府は政治的にも経済的にも完全にポーランドの管理下にある港湾の必要性を痛感した。

グディニャ新港の建設は1921年に始まったが、財政難のために工事の進捗は遅れた。これに対して1922年9月23日にはポーランド下院(セイム)がグディニャ港建設法案を通過させた。1923年には長さ550mの埠頭、長さ175mの防波堤が出来上がった。1923年4月23日にはグディニャの臨時の軍港および漁船の避難港としての完成を記念する式典が挙行された。最初の大きな外洋船がグディニャに入港したのは1923年8月13日である。

グディニャ港の建設を加速させるため、1924年11月にポーランド政府はフランス政府とグディニャ港建設にかかわる共同事業体設立に調印した。この事業で1925年末までに水深7mの避難港、南埠頭、北埠頭の一部、鉄道などが完成し、船荷の積み替え用施設も発注された。工事の進捗は思わしくなかったが、一方でポーランドからの海上輸出の急増、経済の拡大、ドイツ・ポーランド間の経済対立(ドイツ・ポーランド関税戦争)の影響による物流の海上輸送へのシフトなどでグディニャ港に対する需要は急増していた。ポーランドの産業貿易相でありキェルツェルブリンクラクフなどの地域に「中央工業地域」(Centralny Okr?g Przemys?owy)を建設する計画にもあたっていた政治家・経済学者のエウゲニウシュ・クフィアトコフスキ(Eugeniusz Kwiatkowski)の個人的後押しもあって、1926年5月からは建設が加速された。1930年の末にはドック、埠頭、防波堤などの港湾施設のほか、倉庫、穀物加工工場などの物流施設・加工施設が完成しており、さらに冷蔵倉庫などが建設中であった。

グディニャでは内陸水路用の船舶から外洋船への積み替えなどが行われた。1924年に10,000トンだった積み替え輸送は1929年には2,923,000トンへ急増した。当時グディニャは石炭輸出に特化した積み替え港として唯一の存在だった。1931年から1939年にはグディニャはあらゆる貨物を扱う最新鋭の港湾となるべくさらに拡張された。1938年段階でグディニャはバルト海沿岸で最大かつ最新の港湾であり、ヨーロッパ全体で10位の大きさを誇る港湾だった。積み替えは870万トンに増加し、ポーランドの輸出の46%を扱った。1938年にはグディニャ造船所が最初の外洋船であるOlza号の建造を開始した。ポーランドは自前の港湾グディニャを持ったことによりダンツィヒへの依存を少なくすることに成功したが、一方で自由都市ダンツィヒの経済は沈滞していった。

グディニャ市街地の建設も進められた。1925年には都市建設のための特別委員会が発足し、1926年には市街地拡大計画が策定されグディニャは市の地位を与えられ、1927年にはグディニャへの投資に対する税の優遇が認められた。1928年以降グディニャ市は年々拡大し、1939年には人口は12万人を超えた。
第二次世界大戦グディニャのオフィスビル

1939年9月、ポーランド侵攻が始まり、ドイツ軍によりグディニャ市とグディニャ港は包囲される。グディニャは二週間にわたり抵抗を続けたが、市長は同月14日に降伏勧告条件を受諾。100人の人質とともにドイツ軍に投降した[2]


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