グスターヴ・ホルスト
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グスターヴ・ホルスト
Gustav Holst

基本情報
生誕1874年9月21日
イギリス
イングランドチェルトナム
死没 (1934-05-25) 1934年5月25日(59歳没)
イギリス
イングランドロンドン
学歴王立音楽院
ジャンル合唱曲吹奏楽管弦楽
職業作曲家
活動期間1895年 - 1934年
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グスターヴ・シオドア・ホルスト(Gustavus Theodore von Holst, [???st??v/???st??v ?θi??d?? ?h??lst][1][2]/ , 1874年9月21日 - 1934年5月25日)は、イングランド作曲家、編曲家、教育者。出生名はグスターヴァス・シオドア・フォン・ホルスト(Gustavus Theodore von Holst)。最も知られる作品は管弦楽組曲『惑星』であり、他にも様々なジャンルに数多くの楽曲を遺しているがいずれも『惑星』に並ぶ成功を収めてはいない。多くの影響を受けて成立した彼の特徴的な作曲スタイルであるが、中でも成長期のはじめに決定的な影響を与えたのはワーグナーリヒャルト・シュトラウスの2人であった。続いて霊感の源となったのは20世紀初頭に起こったイングランドの民謡復興運動、そしてラヴェルらの台頭する同時代の作曲家たちであり、それらによってホルストは独自の様式を発展、洗練させていった。

ホルストの一家は3代にわたってプロの音楽家を輩出しており、彼が同じ天職に就くであろうことは幼少期から明らかであった。音楽家であった父に幼いころから音楽を学び、10代のころからすでに作曲を試みていた[3]。彼はピアニストになることを夢見ていたが、右腕の神経炎により叶わなかった。父は心配していたものの彼は作曲家として身を立てることを志し、王立音楽大学に入学してチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードの下で学んだ。しかし作曲だけでは食べていくことが出来ず、プロとしてトロンボーンを演奏し、後には教壇にも立った。同僚のレイフ・ヴォーン・ウィリアムズによれば名教師であったらしい。教育活動としては、1907年から1924年まで音楽監督を務めたモーリー・カレッジ(英語版)で築き上げた強力な演奏の伝統、1905年から没する1934年まで教鞭を執ったセント・ポール女学校で開拓した女性のための音楽教育が特筆される。彼が創始したウィツァン(英語版)音楽祭シリーズは、1916年から彼が没するまで続けられた。

ホルストの作品は20世紀の初頭にも頻繁に取り上げられていたが、第一次世界大戦直後に『惑星』が国際的な成功を収めてはじめてその名が広く知られるようになった。内気な人物であった彼はこの名声を快く思わず、穏やかに作曲と教職に打ち込めることを望んだ。晩年にはその妥協を許さない個性的な作曲スタイルが多くの音楽愛好家の目に禁欲的に過ぎると映るようになり、一時は高まった人気も衰えていった。にもかかわらず、彼はエドマンド・ラッブラマイケル・ティペットベンジャミン・ブリテンといった数多くの若い世代のイングランドの作曲家たちに多大な影響を与えた。『惑星』とその他ごく一部を除く彼の音楽は1980年代まで総じて無視に甘んじてきたが、以降は多くの作品の録音が入手可能となっている。
生涯
若年期
家族的背景ホルストの家系図、簡易版

ホルストはグロスタシャーチェルトナムに生まれた。父はプロの音楽家であったアドルフ・フォン・ホルスト[注 1]、母はクララ・コックス(旧姓レディアード)で、2人が授かった2児のうち上の子どもであった。母はほぼイギリス系の出自で[注 2]サイレンセスターの尊敬される弁護士の娘だった[6]。ホルスト家側ではスウェーデンラトヴィアドイツの血が混ざりあっており、過去3代にわたり最低ひとりプロの音楽家が輩出していた[7]

ホルストの曾祖父のひとりであったマティアス・ホルストは、ラトヴィアのリガに生まれたドイツ系であった。彼はサンクトペテルブルクのロシア帝国の宮殿に作曲家、ハープ教師として勤めていた[8]。マティアスの息子のグスタフスはまだ子どもであった1802年に両親と共にイングランドに移り[9]、サロン様式の音楽の作曲家、そしてよく知られたハープの教師となった。彼は貴族であることを示す接頭辞である「von」を勝手に取って一家の名前に加えており、これによって名声が高まること、生徒にとり魅力が増すことを願った[注 3]

ホルストの父親、アドルフ・フォン・ホルストはチェルトナムのオール・セインツ教会(英語版)のオルガニスト、合唱指揮者となり[11]、ピアノを教えた他に自らもリサイタルを開催した[11]。妻のクララはかつては彼の教え子であり、才能ある歌手でありピアニストであった。夫妻は2人の息子に恵まれた。グスターヴの弟のエミール・ゴットフリードはウェスト・エンドニューヨークハリウッドで俳優として成功を収め、アーネスト・コッサートという名前で知られた[12]。クララが1882年2月に他界し、一家はチェルトナム市内で別の家に移り住むと[注 4]、アドルフは子どもたちの育児の助けを得るべく姉妹のニーナを呼び寄せた。グスターヴは一家に対する彼女の献身を理解しており、初期の音楽作品を数点彼女へと捧げている[6]。1885年にアドルフはメアリー・ソーリー・ストーンと再婚、彼女も教え子のひとりであった。彼らはマサイアス(マックスとして知られた)、エヴリン(ソーリーとして知られた)という2男を儲けた[15]。メアリーは神智学に傾倒し、家庭内の物事にあまり関心を示さなかった。アドルフの4人の息子はいずれも、ある伝記作家が述べるところの「良性のネグレクト」に晒されることになり[15]、とりわけグスターヴは「過剰な注目や理解に悩まされることはなく、視力の弱さも胸の弱さもいずれも無視されていた - 彼は『惨めで怯えていた』[16]。」
幼年期、少年期

ホルストはピアノとヴァイオリンの演奏を教わった。ピアノは楽しめたがヴァイオリンは嫌っていた[17]。12歳になると父の勧めでトロンボーンを吹くようになった。これには金管楽器を演奏することで彼の喘息が改善するのではないかという父の考えがあった[18]。1886年から1891年にかけてはチェルトナム・グラマー・スクール(英語版)に通った[19]。1886年頃には作曲を開始している。トーマス・マコーリーの詩『Horatius』に霊感を受けて野心的な管弦楽と合唱のための作品に着手するも、まもなく放棄している[17]。彼の初期作品にはピアノ曲、オルガン・ヴォランタリー、歌曲、讃美歌、交響曲(1892年)がある。この時期に主に影響を受けていたのはメンデルスゾーンショパングリーグ、そしてとりわけサリヴァンであった[20][注 5]

息子にピアニストとしてのキャリアを歩ませたかったアドルフは、彼を作曲から遠ざけようと試みた。ホルストは神経過敏で哀れであった。視力が弱かったにもかかわらず、彼が眼鏡の着用を必要としていることに誰も気が付かなかった。彼の健康が彼の音楽的将来性を決めるのに決定的な役割を果たした。生まれつき病弱で、喘息と弱視に加えて神経炎に苦しみ、それによってピアノの演奏が困難となった[22]。彼は上手く動かない腕について「電気を過剰に流されたゼリーのよう」だと述べていた[23]

1891年に学校を卒業したホルストへアドルフが資金を出し、マートン・カレッジのオルガニストであったジョージ・フレデリック・シムスの下で対位法を学ぶべく4か月間オックスフォードで過ごした[24]。これが終わるとすぐ、グロスターシャーのウィック・リシントン(英語版)でオルガニスト兼合唱指揮者となった。これは彼が17歳にして就いた初めてのプロとしての職だった。この職にはボートン=オン=ザ=ウォーター合唱協会の指揮者の役割ももたらした。仕事が増えたことへの追加報酬は得られなかったものの貴重な経験となり、彼は指揮の技術を磨くことが出来た[17]。1891年11月、ホルストはおそらく初となるピアニストとしての公開演奏を行った。彼と父がチェルトナムの演奏会でブラームスの『ハンガリー舞曲』を演奏したのである[25]。このイベントのプログラムにはグスターヴァス(Gustavus)ではなくグスターヴ(Gustav)と名前が記されていた。彼は幼少期には既に短い名前で呼ばれていたのである[25]
王立音楽大学

1892年、ホルストはギルバート・アンド・サリヴァンの様式でオペレッタ『Lansdown Castle, or The Sorcerer of Tewkesbury』のための音楽を書いた[26]。楽曲は1893年にチェルトナム穀物取引所で演奏された。評判は上々で、この成功は彼に作曲を続けようという意欲をもたらした[27]。そこでロンドンに所在する王立音楽大学の奨学金への応募を行うことになったが、同年の作曲の奨学金を獲得したのはサミュエル・コールリッジ=テイラーであった[28]。ホルストは助成を受けない学生として入学を許可され、アドルフは初年度の学費を賄うために100ポンドを借り入れた[注 6]。ホルストは1893年5月にチェルトナムを後にロンドンへと向かい、一部には倹約のため、また一部には生来の性向により菜食主義者、禁酒家となった[28]。2年後にようやく奨学金を認められて経済的困難は若干和らげられたものの、彼は自ら課した厳格な規律を守った[29]ホルストと生涯にわたる親交を結んだレイフ・ヴォーン・ウィリアムズ

王立音楽大学でのホルストの教授陣はピアノのフレデリック・シャープ、オルガンのウィリアム・スティーヴンソン・ホイト、トロンボーンのジョージ・ケース[注 7] 、楽器法のジョルジュ・ジャコビ、そして大学の学長であった歴史のヒューバート・パリーである。ウィリアム・ロックストロフレデリック・ブリッジから導入の講義を受けた後、ホルストは念願かなってチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードから作曲を学ぶことが認められた[31][32]

学業に勤しむ傍ら、ホルストは生活の足しにするために夏季には海辺の行楽地で、冬季にはロンドンの劇場でトロンボーンを演奏して収入を得ていた[33]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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