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出典検索?: "グスコーブドリの伝記"
『グスコーブドリの伝記』(グスコーブドリのでんき)は、大正後期を中心に活動した童話作家・宮沢賢治によって書かれた童話。1932年(昭和7年)4月に刊行された雑誌『児童文学』第2号にて発表された。賢治の代表的な童話の一つであり、生前発表された数少ない童話の一つでもある。 本作にはその前身となる作品が存在する。1922年(大正11年)頃までに初稿が執筆されたと推定される『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記
成立と経緯
賢治は詩人・佐藤一英が編集・発行した雑誌『児童文学』の創刊号に『北守将軍と三人兄弟の医者』を発表したのに続き、本作を発表する[注 2]。その発表用と思われる清書原稿の反故が数枚現存しているが、その中には上記の『グスコンブドリの伝記』の終わりのほうに裏面を転用したものがあり、『グスコンブドリの伝記』が完結しない段階で冒頭から『グスコーブドリの伝記』の清書を行うという差し迫った状況を垣間見せる。『グスコンブドリの伝記』と本作を比較すると、『グスコンブドリの伝記』での細かいエピソードの描写を省略した箇所がいくつか存在している。賢治の実弟である宮澤清六も評伝『兄・賢治の生涯』で「後半を書き急いでいるような印象」を指摘している。
なお、本作の発表用原稿の執筆時期については1931年(昭和6年)夏に書かれた書簡に「(『児童文学』に対して童話を)既に二回出してあり」という表現が見られる[注 3]。一方、『兄・賢治の生涯』ではこの作品の執筆をめぐるエピソードが1932年(昭和7年)春の話として出てくる。このため1931年夏にいったん送った後、書き直しを求められたのではないかとする意見もある。
2015年7月2日、古書入札会に出品予定の本作の自筆草稿1枚が、東京古書会館で報道陣に公開された[2]。これは清書稿書き損じ断片とみられるものの1枚で[3]、内容は「三、沼ばたけ」の章の一部であるが、『児童文学』発表形とは内容に相違が見られる。 グスコーブドリ(ブドリ)はイーハトーブの森に暮らす樵(きこり)の息子として生まれた。冷害による飢饉で両親を失い、妹と生き別れ、工場に労働者として拾われるも火山噴火の影響で工場が閉鎖するなどといった苦難を経験するが、農業に携わったのち、クーボー大博士に出会い学問の道に入る。課程の修了後、彼はペンネン老技師のもとでイーハトーブ火山局の技師となり、噴火被害の軽減や人工降雨を利用した施肥などを実現させる。前後して、無事成長し牧場に嫁いでいた妹との再会も果たすのであった。 ところが、ブドリが27歳のとき、イーハトーブはまたしても深刻な冷害に見舞われる。カルボナード火山を人工的に爆発させることで大量の炭酸ガスを放出させ、その温室効果によってイーハトーブを暖められないか、ブドリは飢饉を回避する方法を提案する。しかし、クーボー博士の見積もりでは、その実行に際して誰か一人は噴火から逃げることができなかった。犠牲を覚悟したブドリは、彼の才能を高く評価するが故に止めようとするクーボー博士やペンネン老技師を冷静に説得し、最後の一人として火山に残った。ブドリが火山を爆発させると、冷害は食い止められ、イーハトーブは救われたのだった。 農業を始めとする宮沢賢治の実体験が色濃く反映した作品で、「ありうべかりし自伝」と言われることもある。また、その伝記的側面とのつながりから語られることが多い。一方、結末については第二次世界大戦後になって「自己犠牲を過度に美化した内容である」という批判もなされている[注 4]。 発表時の挿絵(6点)を手がけたのは無名時代の版画家・棟方志功であった。棟方は、約40年後に『校本宮澤賢治全集』の月報に寄稿した文章では、その絵を描いた記憶が「薄すぎる」と述べ、「けれどもたしかに、わたくしの、その頃の絵ですから仕方のない事です。―少し、思い出されるのは、これはたしかに「ムナカタシコウ」の絵に違い無いという事だけです。」と記した[4]。6点の挿絵中4点には棟方による署名の添え書きとして「六年九月」という記載がある[5]。 作中に登場する潮汐発電所は、執筆から約30年後にフランスで実現した。
あらすじ
解説