ギドー・ヘルマン・フリドリン・フェルベック
グイド・フルベッキ
生誕1830年1月23日
ネーデルラント連合王国・ユトレヒト州ゼイスト
死没1898年3月10日(1898-03-10)(68歳)
日本・東京府東京市赤坂区
職業宣教師・法学者・神学者・聖書翻訳者・教育者
配偶者マリア・マニオン
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左から、グイド・フルベッキ、サミュエル・ロビンス・ブラウン、ダン・B・シモンズ
グイド・フルベッキことギドー・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(英: Guido Herman Fridolin Verbeck、あるいは蘭: Verbeek[注釈 1]、1830年1月23日 - 1898年3月10日)は、オランダ出身[注釈 2]で、アメリカ合衆国に移民し、日本にキリスト教オランダ改革派宣教師として派遣され活躍した法学者・神学者・宣教師。 日本で発音されやすいようフルベッキと称したことから、現在に至るまでこのように表記されている。ブエルベッキとも表記された[1]。詳細は「フェルベーク」を参照 1830年 オランダ生まれ。モラヴィア兄弟団の教会で洗礼を受ける。1852年 渡米し、ニューヨークに移住。コレラに罹ったが一命を取りとめ、献身を決意すると、1855年にニューヨーク州オーバン神学校
名前表記
生涯
略歴
1878年には元老院に在職し、アメリカン・ボードの牧師らと旧約聖書翻訳委員を務める。板垣退助の仲介(紹介状を所持)によって高知に渡るのは1885年で、伝道活動を行う。翌1886年に明治学院の理事となるとさらに次の年、明治学院神学部教授となる(1887年)。
フルベッキは1898年、赤坂葵町で没。68歳。青山霊園に埋葬された。 1830年にオランダ、ユトレヒト州のザイストで資産家の父カールと教育者の母アンナとの間に8人兄弟の6番目の子供として生まれた[注釈 4][3]。フルベッキ家は代々モラヴィア派に属していたので、フルベッキはモラヴィア派の学校に通い、同派の学校でオランダ語、英語、ドイツ語、フランス語を習得している。また、同派で洗礼を受けた。ただしザイスト市の資料では、家族全員がルター派として登録されている[4]。フルベッキはモラヴィア派の影響で、宗派的な対立には寛容であったとされる[4]。少年時代、中国宣教師のカール・ギュツラフにより東洋宣教(1844年の中国宣教師を育成する「福漢会」の資金調達のための講演、ロンドンではマルクスも聞いている)の話を聞き、海外伝道に興味を持っていた。モラヴィア派の学校を卒業後、ユトレヒト工業学校に進学し、工学を学んだ(このような詩記述もあるがザイスト市史料には鍛冶屋の弟子など、学校で工学を学んだか疑問もある)[3]。 1852年9月2日、22歳のフルベッキはニューヨーク州オーバン市にいた義理の兄弟の招きでアメリカに渡り、ウィスコンシン州の鋳物工場で働くようになる。ウィスコンシン州にはモラヴィア派のオットー・タンク
初期
アメリカ移住
1年後にニューヨーク(ブルックリン)に移動、更にアーカンソー州でエンジニアとして働くことを選び、橋や機械類をデザインした。同じ時期に南部の奴隷たちの状態を見て心を痛め、またハリエット・ビーチャー・ストウの兄弟であったヘンリー・ウォード・ビーチャーの教えにも心を動かされる。アーカンソー州はミシシッピ・デルタという綿花とアフリカ奴隷が非常に多い場所であった。またフィルモア大統領による1850年協定によって南部の奴隷を主に返す妥協をピーチャーが批判していたのを恐らくフルベッキは共感。
その後1854年の夏にコレラにかかり重症となるが、完治した暁には宣教者になることを誓った。奇跡的に回復したフルベッキは渡米最初に来たオーバンに戻り、1855年にニューヨーク市にある長老派のオーバン神学校(英語版)に入学した。神学生の時に、サミュエル・ロビンス・ブラウン(オーバン神学校からマカオのモリソン記念学校で教え、シンガポールでヘボンと合流し共にニューヨークに帰国)の牧会するサンド・ビーチ教会(英語版)で奉仕をした。これをきっかけに、ブラウンと共に日本に宣教することになる。
1859年オーバン神学校を卒業する時に、ブラウン、シモンズと一緒に米国オランダ改革派教会の宣教師に選ばれた。直後の3月22日長老教会で按手礼を受けるが、翌日改革教会に転籍して、正式に米国オランダ改革派教会の宣教師に任命された。4月18日にマリア・マニオンと結婚し、5月7日にサプライズ号で、ブラウン、シモンズと共に日本へ向けてニューヨーク港より出帆した。
長崎時代