グアンチェ族
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グアンチェ族グアンチェ族統治者のひとりBeneharo(英語版)の像(テネリフェ島所在)
総人口
カスティーリャ人等の同化より消滅
居住地域
カナリア諸島
言語
グアンチェ語(死語)、カスティーリャ語
宗教
自然崇拝キリスト教カトリック

グアンチェ族(グアンチェぞく、英語: Guanches)はかつてスペインカナリア諸島に住んでいた先住民族である[1]。2017年に初めて行われたゲノムワイド関連解析により、グアンチェ族は北アフリカ系の起源を持ち、遺伝子的にはアフリカ大陸北部のベルベル人に最も近似していることが判明した[2]。彼らは紀元前1000年頃以降にカナリア諸島へ移住してきたものと考えられる。
概要

グアンチェ族はヨーロッパ人の移住以前からマカロネシアに居住していたことが判明している唯一の民族であり、マカロネシアに属する他の島々(アゾレス諸島カーボベルデの諸島、マデイラ諸島)についてはヨーロッパ人到来以前の居住者の存在が立証されていない。スペインによるカナリア諸島制圧(英語版)以後はスペイン人入植者によってその多くが駆逐され[1]、残った者達も入植者社会に同化していったが[3]シルボラ・ゴメラ島口笛言語)など彼らの文化の一部はカナリア人(英語版)の文化・伝統となって今日まで残存している。
語源

現地語のguanchinetを字義通りに翻訳すると、「テネリフェ島の人々」(Guanは人々、Chinetはテネリフェ島を意味する)となる[1]。フアン・ヌニェス・デ・ラ・ペーニャ(英語版)の研究に基づけば、これを元にカスティーリャ人たちがGuanchosと呼ぶようになったものである[4]。このように古代における原義としてはテネリフェ島の住人のみを指す名称であったが、現代ではGuancheはスペイン入植以前のカナリア諸島先住民全体を指して用いられる[5]
歴史学的背景ラ・パルマ島にあるグアンチェ族の洞窟遺跡
先史時代グアンチェ族の土器(テネリフェの自然と人の博物館(英語版)所蔵)

遺伝子学の研究成果により、カナリア諸島先住民の増加は紀元前6000年以降に進行したサハラ砂漠化に伴う北アフリカ人の移動が大きく影響していることが判明している。言語学的分析においても、命数法の比較からグアンチェ語北アフリカベルベル語派諸語には関連性があると推定されている[6][7]。遺伝子解析の結果、グアンチェ族の人々とベルベル人とは共通の祖先をもつと結論づけられた[8][9]

歴史時代において、カナリア諸島にやってきた人々の記録は非常に多い。特にヌミディア人フェニキア人、カルタゴ人たちは諸島の存在を知ると頻繁に来訪するようになり[10]エッサウィラよりユバ2世(英語版)の軍勢が送り込まれたこともあった[11]。紀元後1-4世紀の間には北アフリカを支配したローマ人がカナリア諸島を訪れるようになり、ローマ由来とみられる遺物ランサローテ島内外から見つかっている。これはローマ人がカナリア諸島との間で交易を行っていたことを意味するが、入植にまで至ったかどうかははっきりとした証拠がない[12]。カナリア諸島の考古学的調査に基づけば、当地の技術水準はスペインによる征服を受けるまで、新石器時代のものからあまり変化が無かったと考えられる。

先住民の到来により、カナリア諸島では大型爬虫類やその他の固有種が絶滅に追い込まれた。代表的なものとしてテネリフェ島のテネリフェジャイアントラット(英語版)がある。

古代ローマの著述家・軍人である大プリニウスマウレタニアの王ユバ2世(英語版)についての記録の中で、紀元前50年にマウレタニア軍がカナリア諸島へ進攻した際に巨大な廃墟を発見したと述べているが、島の住民については言及していない[13]。この記事が事実であるならば、グアンチェ族はカナリア諸島唯一の先住民ではなく先行していた別の民族がいた可能性もあるが[1]、単純にマウレタニア軍が島々全域を調査しなかっただけであるかも知れない[要出典]。テネリフェ島、特にイコド・デ・ロス・ビノス(英語版)にあるグアンチェ族の洞窟遺跡(英語版)の発掘調査では、洞窟内から発見された土器類を分析した結果、居住の開始が紀元前6世紀にまで遡ることが判っている[14]

厳密には、「グアンチェ」とはテネリフェ島の原住民を指す。8世紀後半以降、カスティーリャ人の他ジェノヴァ人やポルトガル人なども島を来訪するようになってはいたが、14世紀にカスティーリャ王国の侵攻を受けるまで、島の人々は比較的孤立した存在であった。その後「グアンチェ」の名はカナリア諸島7島全域の原住民すべてを指して使われるようになった[1]。これはテネリフェ島の勢力が最も大きく、重要な地位を占めていたためである。

彼らの言語であるグアンチェ語については、幾つかの言い回しや語彙の他に古代の族長の名前が語り伝えられているのみである[1]が、ベルベル語派諸語との類似性が見受けられる[15][6]。グアンチェ語に関する最古の記録はジェノヴァの探検家ニコローゾ・ダ・レッコ(英語版)による1341年の記述で、島で使われる数の数え方を翻訳したものである。

ヨーロッパの歴史家によれば、カスティーリャ王国の征服を受けた時、グアンチェ族は文字を使用していなかったという。これは表記記録が何処かの時点でなされなくなったか、単に入植者たちが存在を見落としていたものであろう。石刻や図像による表示、洞窟壁画・彫刻類は諸島全域から多数見つかっている。いくつかの島からは、地中海世界文化の影響を受けたものと考えられるペトログリフも見つかっている。1752年、ラスパルマスの軍事総督であったドミンゴ・ヴァンデウァル(英語版)[1]は諸島内のペトログリフの調査を計画し、ラスパルマスの司祭アキリーノ・パドロン(スペイン語版)がエル・イエロ島のEl Julan、La Candia、La Caletaに存在する石刻のリストを作成した。1878年にDr. Rene Verneauがテネリフェ島Las Balosの峡谷で発見した石刻は、ローマ帝国占領期ないしそれ以前の古代リビュア[1]ヌミディアのそれと似通ったものであった。他の地点では、ティフィナグ文字が書かれたものも見つかっている。
征服以前の探検

詳細は「植民地化以前のカナリア諸島(英語版)」を参照アロンソ・フェルナンデス・デ・ルーゴ(英語版)に投降するグアンチェの王

大プリニウスストラボンの地理誌においてカナリア諸島は至福者の島として言及があるが、住人についての記述はない。グアンチェの人々に関する記述は、アラブ人地理学者イドリースィールッジェーロ2世のため1150年頃に記したNuzhatul Mushtaqにおいて、リスボンより出航したアンダルシア人航海者一家というMugharrarin(冒険家の意)による大西洋探検の報告として出てくる。この書の唯一現存する版であるフランス国立図書館本テキストとピエール・アメデ・ジョベール(英語版)の訳本によれば、このMugharrarinは「粘着質で悪臭を放つ水域」に至ったのち引き返そうとしたところ無人島(マデイラ諸島エル・イエロ島)を発見したが、そこには「肉質が苦く食用に出来そうも無い羊が無数にいた」といい、更に「南進を続けたところ」別の島に至り、そこで小型の帆掛け船に取り囲まれ集落に連行された。


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