グアテマラ革命(グアテマラかくめい)とは、グアテマラにおいてホルヘ・ウビコの独裁政治を倒した後、1944年10月に発生した革命であり、発生した月から十月革命と呼ばれることもある。続く約10年間は「10年の春」(Diez anos de primavera)と呼ばれ、労働者の権利が認められ、大土地所有制が解体された。しかしながらアメリカ合衆国の支援によって1954年に反政府クーデターが引きおこされて革命は失敗に終わった。 19世紀末以来、グアテマラではコーヒーの輸出が政府の重要な収入源になっていった。政府はコーヒー生産を支援するために先住民のマヤ人から土地を取りあげる法を通過させ、労働法を改正してプランテーションが債務拘束労働を使うことができるようにした[1][2]。アメリカ合衆国のユナイテッド・フルーツ・カンパニー(UFC)は広大な土地を獲得した外国企業のひとつであり、それは公有地と先住民の土地の両方を含んでいた[2]。 1929年に世界恐慌によって失業者が増大し、労働者の社会不安が発生する中、革命を恐れた大土地所有者は1931年の大統領選挙でホルヘ・ウビコを支持した[1][2]。大統領に就任したウビコは浮浪防止法(Ley contra la Vagancia)を定め、土地を持たない労働年齢の人間に最低100日間の重労働が課せられるようになった[3]。政府はまた道路や鉄道の建設などのために先住民を無償で働かせることができるようにした。ウビコ大統領は賃金を非常に低く固定した。土地所有者が財産を守るために行うすべての行動に関して訴追を免除される法律を通過したが[3]、この法を歴史学者は殺人の合法化と記述している[4]。ウビコは警察権力を増強してラテンアメリカでもっとも効率的で残酷なものにした[5]。第二次世界大戦中に彼はアメリカ合衆国がパナマ運河を守るための空軍基地をグアテマラ国内に設置することを許可した[6]。前任者と同様にウビコもユナイテッド・フルーツ・カンパニーに大幅な特権を与え、港の建設とひきかえに20万ヘクタールの公有地の使用を認めたが、後に経済危機を理由として港の建設は免除した[7]。 第二次世界大戦はグアテマラの社会不安を増大させ、ウビコ政権は抗議運動をより激しく鎮圧するようになった[8]。1944年にエルサルバドルで反乱が発生してマクシミリアーノ・エルナンデス・マルティネス大統領を辞任させた。反乱はグアテマラに飛び火し[9]、ウビコは6月に辞任した[10]。 その後は3人の将軍による軍事評議会(フンタ)が政権を執り、フアン・フェデリコ・ポンセ・ヴァイデス
背景
十月革命1944年の革命評議会。左からアルベンス、トリエージョ、アラナ
1944年10月1日、反体制派の主要紙である『El Imparcial』の編集者だったアレハンドロ・コルドバが暗殺された。これを契機として軍のクーデター派はクーデターを民衆蜂起へ変化させようとして反体制運動に接近した。
10月19日、フランシスコ・ハビエル・アラナ
(英語版)とハコボ・アルベンスに率いられた少数の将校がクーデターを起こし[15]、翌20日にポンセ・バイデスは無条件降伏した[14]。軍事評議会はアラナ、アルベンス、および反政府運動家のホルヘ・トリエージョの3人からなる革命評議会に取ってかわられた。新評議会は大統領と議員の選挙、および制憲議会の開催を約束した[16]。学者はポンセ・バイデスの辞任と革命評議会の成立をもってグアテマラ革命の開始とする[16]。しかし、革命評議会がすぐさま大土地所有者の利益を脅かすことはなかった。10月22日に先住民の小さな村であるパツィシア (Patzicia) で反乱が起きたが、評議会はすばやく暴力によって反乱を鎮圧し、女性や子供を含む民間人が殺された[17]。