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クー・クラックス・クラン
Ku Klux Klan
略称KKK
設立1865年12月24日
設立者不明
法的地位非営利団体
目的自警
会員数5,000名から8,000名(第3のKKK)
公用語英語
重要人物ネイサン・ベッドフォード・フォレスト
ウィリアム・ジョセフ・シモンズ
デイビッド・カーティス・スティーブンソン
エドワード・L・ジャクソン
デービッド・デューク
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クー・クラックス・クラン(英: Ku Klux Klan、略称:KKK)は、アメリカの秘密結社、白人至上主義団体である。 「白人至上主義団体」とされるが、正確には「北方人種至上主義」(ノルディック・イデオロギー)で、主に黒人、アジア人、ヒスパニック、ユダヤ人などの他の人種の市民権に対し異を唱え、同様にカトリックや、同性愛者の権利運動、フェミニズムなどに対しても反対の立場を取っている。 マニフェスト・デスティニーを掲げ、プロテスタントのアングロ・サクソン人(WASP)などの北方系の白人のみがアダムの子孫であり、唯一、魂を持つ、神による選ばれし民として、他の人種から優先され隔離されるべきである、と主張する選民思想団体。 名前の由来はギリシャ語の「kuklos(円環、集まりの意)」の転訛と英語の「clan(氏族、一族)」を変形させたものと言われる。別の説として、ライフル銃の操作音が起源という説もあり、アーサー・コナン・ドイルの短編『オレンジの種五つ』で紹介され世に広まった[1]。団員は「クークラクサー」、もしくは「クランズマン」と呼ばれた。 白装束で頭部全体を覆う三角白頭巾を被りつつデモ活動を行う集団として世間で認知されている。 「第1のKKK」は、南北戦争終結後の1865年12月24日、テネシー州プラスキにて、南部連合のネイサン・ベッドフォード・フォレストを含む6人の退役軍人によって設立されたと一般に考えられており、KKKの側もその様に喧伝する傾向にある。しかし、実際にはこれ以前から同様の組織は存在したとされ、また活動内容も南軍の退役軍人達で作られた「交遊会」であって、最初から政治団体として結成された訳ではなかったといわれる。19世紀のアメリカでは結社を結成することが流行し、アメリカ人の5人から8人のうち1人の割合でなんらかの結社に加入していた[1]。 初期のメンバーはボール紙で補強された顔を覆う三角巾と丈長のガウンを身に着けたが、色や模様は決まっておらず、相互確認のためのホイッスルを携帯した。この扮装は、当時流行していた、夜道で通行人を驚かせるいたずら目的に着用されたものだった[1]。 会員が増えるにつれ、他の秘密結社と同じく神秘的な儀礼と独特な呼称を持つ位階が定められた[1]。結社の噂は周辺地域に広がり、1867年ごろからメンバーが急速に増えていった。徐々に政治活動を開始した際にも主要な目標は旧連合国(南部)に対して、合衆国政府が行っていた事実上の占領統治(リコンストラクション)への反対が中心であった。 やがて反奴隷解放も主張に加えられるようになり、白い布で作った装束を身にまとって黒人の居住区を練り歩くという嫌がらせ行為を行うようになった。元は軽いからかいとしての行動に過ぎなかったが、白人の復讐を恐れていた黒人達は白装束の集団に恐れをなして家の中に逃げこんでしまった。これに味を占めた団員の一部は示威行為を度々繰り返すようになり、評判を聞きつけた南部の人種主義者達が「第1のKKK」への加盟を望む動きが生まれ、民主党最右翼の人種差別過激派として保守的な白人の支持を集め始めていく。 それでもこの時点でのKKKには後に見られるような「反ユダヤ」などの民族主義は無く、あくまで人種主義が思想の中核であった。その為、南部陸軍軍医総監だったサイモン・バルーク
概説
歴史
起源(第1のKKK)初期のKKKメンバーを描いた絵
1867年夏、KKKはナッシュビルで開催された大会の後に著しい成長を遂げ、この大会で指導者としてフォレストが推薦され、「グランド・ウィザード(Grand Wizard、総司令。直訳では「大魔導士」)」の称号を与えられた。1868年には団員数が55万人を超えたと言われている[2]。しかし暴力的傾向が強まっていくKKKに嫌気が差したフォレストは「当初の栄誉ある、また愛国的目的から外れ、大衆の安寧に貢献するよりも有害になっている」として、1869年にクランの解散を宣言し、また社会的義務を果たせる人物であればアフリカ系アメリカ人の社会進出にも賛同した。だが、メンバーの大半はその解散宣言に従わず活動を継続した。1871年には遂に政府から非合法のテロリスト集団と認定され、摘発が開始された。
フォレストら南部連合の有力者が離れた後も独自活動を続けていた「第1のKKK」であったが、警察だけでなく占領地に駐留する軍部隊による鎮圧も行われ、勢力再建は困難であった。また自由黒人だけでなく北部人への抵抗を主張し、南部でも厄介者として扱われる彼らの勢力は大きく伸張する事はなかった。そもそもこの時代には奴隷解放を主導した合衆国政府も自由黒人への全面的な市民権を認めるつもりはなく、レコンストラクションは南部諸州が合衆国連邦に忠誠を誓う事と、奴隷制度の廃止を定着させる事、戦費を回収する事などが要点に置かれていた。
カーペットバッガー(北部の役人、政治家)やスキャラワグ(占領に協力する南部人)ら南部共和党が主導する戦後処理は1877年まで続き、ラザフォード・ヘイズ政権下で北部諸州の軍と政治家はそれぞれの州へと撤収して統治権を南部諸州へ返還した。同年から南部諸州で南部共和党の州政権が次々と解体され、南部民主党が復権を果たした。南部復興の中でも奴隷制は完全廃止が維持されたが、白人と黒人の「分離」という形式をとった実質的な差別法制(いわゆるジム・クロウ法)が南部各州の州法という形で制定され、人種的な対立は継続した。最終的にかかる差別的法制を正当化する法理(いわゆる「separate but equal」ドクトリン)が連邦最高裁で合憲とされた(プレッシー対ファーガソン裁判)。