クール_(スイス)
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座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯46度51分0秒 東経9度32分0秒 / 北緯46.85000度 東経9.53333度 / 46.85000; 9.53333

クール
Chur


フュアヘルンリ(Furhornli)山から見たクール市街


基礎自治体章

位置

グラウビュンデン州内のクールの位置
位置
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座標 : CHR_ 北緯46度51分0秒 東経9度32分0秒 / 北緯46.85000度 東経9.53333度 / 46.85000; 9.53333
行政
スイス
  (Kanton)Wappen des Kantons Graubundenグラウビュンデン州
 区 (Bezirk)プレスール(Plessur)
 基礎自治体クール
地理
面積 
  基礎自治体域28.09 km2 (10.85 mi2)
標高593 m
人口
人口(2015年12月現在)
  基礎自治体域34,652[1]
    人口密度  1,200人/km2(3,200人/mi2)
その他
等時帯中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
ISO 3166-2CH CHR
公式ウェブサイト : ⇒www.chur.ch/

クール(ドイツ語: Chur)は、スイスグラウビュンデン州の北部に位置する基礎自治体 ( ポリティッシェ・ゲマインデ ) で、同州の州都である。都市としての称号 (Stadt) を有している。Churというつづりは、標準のドイツ語ではフール[xu?r]と発音するが、グラウビュンデン地方ではクール[ku?r]と発音される。また、ロマンシュ語ではCuira(クイラ[?kujra])[注 1]イタリア語ではCoira(コイラ[?k?jra])、フランス語ではCoire、ラテン語ではCuria、Curia Rhaetorum、Curia Raetorumとなる。
概要

クールは標高593 メートルの位置にあり、プレスール川(Plessur river)がシャンフィグ谷(Schanfigg valley)から流れ出す位置の右岸にあり、プレスール川がライン川に合流する地点の1 マイルほど上流に当たる。ほぼ完全にアルプス山脈に囲まれており、深いシャンフィグ谷への入口を守るミッテンベルク(Mittenberg、東側)とピツォケル(Pizokel、南側)の丘に囲まれている。

クールには約3万5000人の住民がおり、話されている言葉はスイスドイツ語、イタリア語、ロマンシュ語などである。1900年の時点で、11,532人の住民のうち9,288人がドイツ語、1,466人がロマンシュ語、677人がイタリア語話者で、また宗教では7,561人がプロテスタント、3,962人がローマカトリックであった。

市域は標高600 メートル前後のところから1,800 メートル前後のところまで高度の変化がかなりあり、クール近郊の、オールドタウンからアクセスできる山であるブラムブリュエシュ(Brambruesch)は2,174 メートルの高さがある。

クールの泉の水は、パスガー(Passugger)というミネラルウォーターとして販売・輸出されている。
観光

新市街は西側に、歴史的な建造物を全て含む旧市街は東側に位置している。旧市街にはザンクト・ルツィウス(St. Luzius)の大聖堂がある。この教会はクールの後援者で、2世紀のイギリスの王であるLuciusのことと思われているが、実際のところこの名前はおそらくLucius of Cyreneとラエティアを征服したローマの将軍Lucius Munatius Plancusとの間の混乱で生じた名前だと思われる。

さらに古い教会の位置に1178年から1282年に掛けて建てられ、多くの奇妙な中世の骨董品を、特にその聖具室内に所有しており、アンゲリカ・カウフマン(Angelica Kaufmann)による絵も所蔵し、さらにグラウビュンデンの偉大な政治指導者であるイェルク・イェナッチュ(Jorg Jenatsch)の墓もある。反対側には司教宮殿があり、あまり遠く離れていない場所に6世紀の修道院の跡に建てられた神学校がある。これらの古い建築物からあまり離れていない場所に新しいラエティア博物館があり、ラエティアに関連する物品のコレクションがある。これには、ベネディクト会のディゼンティス・アベイ修道院(Disentis Abbey)の修道士、Placidus a Spescha(1752年 - 1833年)がライン川源流地域周辺の高地積雪地帯を探検して集めた地質学のコレクションが含まれている。クールの病院の中の1つは有名なカプチン会の慈善活動家、Theodosius Florentini神父(1808年 - 1865年)によって設立された。彼はクールのローマ研究家でもあり、遺骸は1906年に大聖堂からシュヴィーツ近郊のインゲンボール(Ingenbohl)へと移された。イェナッチュの遺骸が置かれたローマゴシックの大聖堂にはかなり興味深い納骨室があり、アルブレヒト・デューラーハンス・ホルバインによる素晴らしい絵がある。

他にこの町では、この町生まれのスイスの芸術家、H・R・ギーガーの設計によるギーガー・バー(Giger Bar)や、旧市街、アートギャラリー、自然博物館などが観光地である。
交通

クールはイタリアからのアルプス山脈を越える峠道の集まる地点で、ルクマニア峠(Lukmanier Pass)、シュプリューゲン峠(Splugen Pass)、サン・ベルナルディノ峠(San Bernardino Pass)などがある。またエンガディン地方からのアルブラ峠(Albula Pass)、ユリア峠(Julier Pass)を越える道もここに集まる。このためここは地域の商業の中心であり、特にイタリアのヴァルテッリーナからのワインが取引されているが、この地自体には工場はあまりない。

クールはチューリッヒから鉄道で74 キロメートルの位置にある。クールの駅にはスイス連邦鉄道(スイス国鉄)とレーティッシュ鉄道の路線が乗り入れている。スイス国鉄はスイス全土をカバーしているが、グラウビュンデン州内の鉄道の多くはレーティッシュ鉄道により営業されている。

鉄道駅の近くにはバスターミナルも存在する。

クールはスイスの高速道路A13でも結ばれている。
歴史マテウス・メーリアンによる1642年のクール

クールはクール司教の所在地であり、またグラウビュンデン州の州都で、州内で人口が最も多い自治体でもある。クールにおける居住の考古学的な痕跡は、紀元前3900年から3500年頃のフィン文化(Pfyn culture)まで遡り、これはクールはスイスでもかなり古い時代から人が住んでいた場所であることを示している。クールの町は戦略的にとても重要な位置にあり、アルプス山脈を越えて来るいくつかの重要なルートがここに集まり、またここからライン川に沿ってスイスやドイツのいくつもの目的地へと道が分かれていく。

現代のクールという地名は、この地がローマ帝国の陣地であった頃のラテン語のCuria Raetorumから取られている。後にクールは紀元前15年にローマの属州であるラエティアの州都となった。クールは、「アントニヌス・アイティネラリー」(Antonine Itinerary)や、パウルス・ディアコヌスのランゴバルド史(Historia Langobardorum)の中で言及される程度の、中程度の重要性であった。

1400年頃から1797年までの、グラウビュンデンにおける三同盟自由国の時代には、クールはゴッテスハウス同盟(Gotteshausbund、「神の家の同盟」)の中心都市で、また同盟間の会合が定期的に開かれる場所の1つでもあった。

クールの領主司教(prince bishop)は19世紀のはじめまで、グラウビュンデン州、グラールス州チューリッヒ州ウーリ州シュヴィーツ州ウンターヴァルデン州(現在のニトヴァルデン準州オプヴァルデン準州)、ルツェルン州リヒテンシュタインに対して管轄権を持っていた。クールの町のギルド組織は1465年から1839年まで続き、さらに1874年には属人的な共同体であるブルガーゲマインデ(Burgergemeinde)が地域共同体であるアインヴォーナーゲマインデ(Einwohnergemeinde)になった。

1803年にグラウビュンデン州がカントンになった時、クールはその州都として選ばれた。
教会と領主司教の歴史


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