クール・ハーク
[Wikipedia|▼Menu]
クール・ハーク

クール・ハーク(Kool Herc、本名:Clive Campbell、1955年4月16日 - )は、ジャマイカ出身のDJ
目次

1 人物・来歴

2 バイオグラフィー

2.1 1520セグウィック通り

2.2 ブレイクビーツ

2.3 BボーイズとBガール

2.4 路上へ

2.5 ネルソン・ジョージらによる人物評

2.6 他のDJへの影響

2.7 ラップ時代の到来

2.8 その後


3 深刻な病気

4 関連項目

5 脚注

人物・来歴

グランドマスター・フラッシュ[1]アフリカ・バンバータと並ぶ、ヒップホップ黎明期の3大DJの一人に数えられ、“ヒップホップ界のゴッド・ファーザー”と呼ぶ者もいる。

1967年、ジャマイカからニューヨークブロンクス区に移り住む。1973年に妹の誕生日パーティーのためにレコードと機材を用意し、DJを始めた。最初は本名で活動していたが、後にハーク(ハーキュローズの短縮形)と名乗る。この頃に、ターンテーブルを2つ同時に使って2枚の同じレコードの特定部分を交互に何度も繰り返すブレイクビーツを発明したと言われている。自身が所有していたレゲエサウンド・システム「ハーキュローズ(Herculords)」を利用し、自身の「ブレイクビーツ思想」に基いた。このブレイクビーツと、ハードファンク、ロック、ラテン打楽器演奏を使う事によって、ヒップホップ音楽の基盤を造り上げた。この構想がダンサーに広まり、結果ラップを生み出す事となる。また、異説もあるが、一般的にブレイクビーツで踊り出すダンサーのことを「Bボーイ」(ブレイクボーイ)と名付けたのは彼だとされる。

彼の流すジェームスブラウンを典型とするファンク、およびヘビー・ファンクのレコードは、ブロンクスの1970年代初期ディスコブームに大きな影響を及ぼした。彼の音楽は様々なダンサーに影響を及ぼし、その結果、彼は曲中のドラムビートを強調するようになった。このビート音をブレイクと呼ぶ。さらに、このブレイクを曲中に次々と変化させていく技術を生み出した。

クール・ハークのDJスタイルはすぐにアフリカ・バンバータグランドマスター・フラッシュなどが取り入れていった。しかし彼らとは違い、クール・ハークはヒップホップ音楽を商用音楽として取り入れようとは、なかなかしなかった。
バイオグラフィー
1520セグウィック通り

クライブ・キャンベル(クールハーク)は、キース・キャンベルとネッティ・キャンベルの子、6人兄弟の長男としてジャマイカのキングストンで産まれる。ジャマイカで、彼は近所のダンスホールで開かれるパーティーの、音楽やDJの乾杯の音頭を聞きながら育つ。1967年にニューヨークのブロンクスに移り住む。ブロンクス横断鉄道の建設(ロバート・モゼスが1963年に完成、1972年まで延長工事)によって何千人もがブロンクスに移り住み、地域一帯を変化させていった。この鉄道建設と低地価現象によって白人の郊外への脱出を引き起こす事となる。多くの地主は保険から少しでもお金を取り戻そうと、放火脅迫で新しい移住者を脅した。このようにブロンクスでは暴力的な若いギャングの風潮が盛んに見られるようになり、1968年から1973年までその風潮はどんどんと広がって行く。

キャンベルは高校時代(アルフレッド・スミス・キャリアテクニカル高校)に、その長身、人気、バスケットボール選手としての活躍で「ヘラクレス」と呼ばれるようになる。ともに、落書き(グラフィティ)グループ、エクスバンダルスにも加わり、ここでクール・ハークとニックネームがつく。その頃同時に彼は、父に懇願して当時レアだったジェームス・ブラウンのレコード「セックス・マシーン」を手に入れた。このレコードを聞くために周りの友人は集まるようになり、妹シンディーと新学期パーティーを開くようになる(1540セドウィック通りのレクリエーションルーム)。これを機にハークはサウンドシステムを持つようになる。彼の初代サウンドシステムは、ターンテーブル2台、2チャンネル付きギターアンプ、PAスピーカー。これを使ってジェームス・ブラウンの「Give It Up Or Turnit A Loose」、ザ・ジミー・キャスター・バンチの「It's Just Begun」、 Booker T & the MG'の「Melting Pot」などを流す。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:16 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef