公用語ドイツ語、ラトビア語(民衆語)
首都ミタウ
クールラント公
1559年 - 1587年ゴットハルト・ケトラー
1642年 - 1682年ヤーコプ・ケトラー
1769年 - 1795年ペーター・フォン・ビロン
面積
1870年27,286km²
人口
61万9154人
変遷
ヴィリニュス合同1562年
植民事業1637年 - 1666年
共和国からの独立1791年
第3次ポーランド分割に伴う併合1795年
通貨ターラー
クールラントおよびゼムガレン公国(クールラントおよびゼムガレンこうこく、ラテン語:Ducatus Curlandia et Semigallia;ポーランド語:Ksi?stwo Kurlandii i Semigalii;ドイツ語:Herzogtum Kurland und Semgallen;ラトビア語:Kurzemes un Zemgales hercogiste)は、1562年から1795年までバルト海沿岸部に存在した公国で、ポーランド王国とその後身であるポーランド・リトアニア共和国の封土。その名前はバルト人の部族であるクール人とセミガリア人にちなむ。1791年に完全独立を果たしたが、4年後の1795年3月28日、第3次ポーランド分割に際してロシア帝国に併合された。
クールラント・ゼムガレン公国の国称は1918年3月8日に成立した短命な戦時国家にも与えられた。このクールラント・ゼムガレン公国はドイツ帝国の従属国家であるバルト連合公国の一部を形成すると決められていたが、ドイツがバルト海海域において降伏すると同時に消滅した。公国の存在した地域は第一次世界大戦が終結するとともに民族国家ラトビア共和国の一部となった。 リヴォニア戦争の最中であった1562年、それまでバルト海沿岸部に存在した司教領・諸都市の集合体であるリヴォニア連盟は解体され、ドイツ人騎士団のリヴォニア騎士団は解散した。ヴィリニュス合同協定の取り決めにより、エストニア南部とラトビア北部はリトアニア大公国に加盟し、リヴォニア公国を形成した。ダウガヴァ川西岸とバルト海とに挟まれたラトビア南部は、名目上はポーランド王の封臣身分であるクールラントおよびゼムガレン公国となった。 最後のリヴォニア騎士団総長を務めたゴットハルト・ケトラーが最初のクールラント公爵となった。騎士団の他のメンバーはクールラントの貴族になり、それまで保持していた所領を封土として改めて与えられた。ケトラーは最終的に公国の領域の3分の1近くを自分の領地として手に入れた。ミタウ(現在のイェルガヴァ)が公国の首都となり、半年に1回は議会が開かれることになった。 クールラントの一部地域は公国には属していなかった。リヴォニア騎士団はかなり以前からバルト海に接するグロビン(グロビニャ)一帯をプロイセン公国に貸し付けていた。また「クールラント司教領」とも呼ばれていたピルテン
歴史
騎士団国家の解体と公国創設
騎士団の他の構成員と同じくケトラーもドイツ人であり、自分の創設した公国をドイツの領邦国家と似たような形に作り上げた。1570年、ケトラーは領主たちに対し、所有する土地に住む農民たちを農奴として使役する特権を授けた。
1587年にゴットハルト・ケトラーが死ぬと、その二人の息子フリードリヒとヴィルヘルムが公国を相続した。1596年に公国は2つの地域に分割され、兄のフリードリヒが東部地域のゼムガレン(ゼムガレ)を領してミタウ(現在のイェルガヴァ)に住み、弟のヴィルヘルムが西部地域のクールラント(クルゼメ)を領してゴルディンゲン(現在のクルディーガ)に住んだ。