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クールス(COOLS)
出身地 日本 東京都渋谷区原宿
ジャンルロックンロール
活動期間1975年 - 現在
レーベルキングレコード
トリオレコード
ポリスターほか
公式サイト ⇒公式ファンクラブ
メンバー佐藤秀光(ドラムス)
ジェームス藤木(リードギター、ボーカル)
村山一海(ボーカル)
濱野和男
クールス(COOLS)は、日本のロックバンドである。1975年結成、現在も活動中。 結成からすでに40年以上経っているが、音楽性やファッションなど一貫して変わらず活動を続けている。元メンバーに舘ひろし、岩城滉一、水口晴幸(ピッピ、PITPI)、横山剣など有名芸能人を輩出している。BUCK-TICK、藤井フミヤ[1]など、その影響を受けたミュージシャンは数多い。 当初は、そのファッションや成り立ちから「不良」を売り物にした。またジェームス藤木は数多くのミュージシャンに楽曲を提供している。 バンド結成当初はコンサート会場にファンの暴走族が集結したり、その他のファン層も不良少年が多かった。 六本木ロアビル建設中の1972年頃、その隣にあったジーンズ・ショップの向かいにダイナー形式のハンバーガー屋があり、バイカーの溜まり場になっていた[2]。ジーンズ・ショップで働いていた水口晴幸が後にクールスを結成するメンバーたちとそこで知り合う[2]。 水口が事業家に誘われて[2]、乃木坂でアメリカ大使館の家族が住んでいた庭付きの洋館で洋服メーカーを設立[2]。そこにビリヤード台を置いたら、不良がたくさん集まるようになり、その中に舘ひろしや岩城滉一らもいた[2]。飲食店で食事をしていた岩城滉一に舘ひろしが歩み寄り、身構えた岩城に「あのバイク、君の?」と話しかけ、バイクの話題で意気投合する。当時、舘はバイクの免許を持っておらず、岩城に勧められ、岩城のバイクに二人乗りして教習所に通った[3]。 舘ひろしが「バイクチームを作ろう」と水口たちを何度も誘い[2]、東京原宿において1974年12月13日の金曜日の縁起の悪いをわざと選び[2]、舘ひろしをリーダー(チーム内での呼称は「ボス」。ただし水口晴幸(ピッピ、PITPI)のみ「大将」と呼んでいた)、岩城滉一(同じく、チーム内での呼称は「コーちゃん」)をサブリーダーに、および岩城の学生時代からの友人であった佐藤秀光らで結成されたモーターサイクルグループ、クールスを結成[2]。 結成に際して舘が自分で「このチームはリーダー(舘)の独裁により運営される」と頭に書いた血判状(規約書)を作成して[2]、メンバーはノリで血判を押した[2]。このため水口は「だから今でも舘から電話があったら、飛んで行かないといけないんだ(笑)」と話してる[2]。当時、舘はカワサキのZIIに乗っていた。 チーム結成当時の人数は21人で、メンバー全員リーゼント・黒の革ジャンパー・黒または青のジーンズ・黒のオートバイで統一された[2]。「黒」というカラーにこだわったのは、舘が学生時代にラグビー部の主将をしていて、ラグビーNZ代表「オールブラックス」が好きだったからである[2]。表参道の神宮前交差点近くにあった原宿レオンという多くのクリエイターが出入りするカフェが溜り場で、店の前に黒いオートバイを数台並べている様は大きいな注目を集めた[2]。当時の原宿は芸能関係者やクリエイターなど、時代の先端を行く人たちが集まる場所で[2]、まだカラフルな色合いが多かった時代に於いては黒一色のファッションが目立った[2]。女性ファッション誌などのモデルを務めたりし、素人なのに近県からファンが集まるようになった[2][4]。 1975年4月13日、矢沢永吉率いる「キャロル」の解散コンサートで親衛隊を務める[2]。これはローリング・ストーンズがヘルズ・エンジェルスを親衛隊にしてコンサートを行なったことに影響されて、矢沢が舘に同じような演出をしたいと持ちかけたもの[5]。キャロルの解散コンサートを収録したDVD(一部カット編集)にはバイクチーム時代のクールスの走行場面が映っており、また、岩城がキャロルとの思い出を語ったり、舘がキャロルメンバーにインタビューしたりする場面などが収録されている。
概説
歴史
前史
舘ひろしと岩城滉一の出会い
結成(バイクチーム「クールス」)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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