クーリーの牛争い
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戦うクー・フラン(J・C・ライエンデッカー、1911年)

クーリーの牛争い(クーリーのうしあらそい、アイルランド語: Tain Bo Cuailnge、英語: The Cattle Raid of Cooley、単にThe Tainとも)は、初期アイルランド文学の一部を構成するアルスター伝説群の中心となる物語。叙事詩とされることも多いが、主として韻文でなく散文で書かれている。アルスター王国コナハト王国との間に起きた7年にわたる戦争と、クーリーの雄牛を得んとする女王メイヴ、そしてそれに立ち向かう若き英雄クー・フランを描いた物語である[1]

もともとは1世紀頃、キリスト教伝来前の英雄時代のものとされるが、現存するのは12世紀以降の校訂本3版のみである。一つは主に古アイルランド語で書かれた集録(第一稿本)、一つはより一貫した中期アイルランド語によるもの(第二稿本)、もう一つは初期現代アイルランド語によるものである(第三稿本)。
内容

第一稿本によれば、物語本編は、コナハト王アリルと女王メズヴ(メイヴ)が軍勢誇示のためにクルアハンに軍を集めるところから始まる。第二稿本ではこれに次の話が加わる。メイヴが夫アリルと財産比べをした。お互いにほぼ同じだけの財産を持っていることが分かったが、果たしてアリルは極めて精強な雄牛フィンヴェナハを所有しており、この一点においてメイヴは負けていた。しかも、もともとこの牛はメイヴの所有する群れで生まれたにもかかわらず、女に所有されることを恥として自らアリルの元へ移り住んだという曰くがあった。夫に並ぶべくフィンヴェナハと同等に強い牛を求めたメイヴは、アルスター国内にあるクールンギャ(クアルンゲ、クーリー)の街で豪然たる雄牛(ドン・クールンギャ)を見出す。メイヴはこの雄牛の所有者ドーラ・マク・フィアハナと交渉し1年間借り受ける約束を一度は取り付けたものの、酔っ払った伝令によって、借りられなくとも強奪するつもりであったことを暴露されてしまう。取引は決裂し、メイヴは軍を挙げてドン・クールンギャの奪還に出立する。この軍には、フェルグス・マク・ロイヒ率いるアルスターからの亡命者たちもいた。

一方、クールンギャを守るべきアルスターの戦士たちは、「九日の衰弱(ces noinden)」という病にかかって動けなくなっていた。ただ一人防衛につくことができたのは、17歳の少年クー・フランのみだった。彼は御者のロイグとともに、進撃するアルスター軍に対してゲリラ戦を敢行し、渡渉場での一騎打ちの権利を主張して、次から次へと敵軍の勇士を打ち破り、数ヶ月もの間孤立無援で軍を押し止めることに成功する。

この間クー・フランは、超自然的存在から助けを受けたり、邪魔を受けたりする。ある戦いの前には、モリガンが美女の姿で現れて誘惑するが、彼はそれをはねつけてしまう。正体を表したモリガンは、次の戦いを邪魔してやると脅す。初めはうなぎの姿でクー・フランの足を取り、次は狼となって渡渉場に牛を殺到させ、最後は群れの先頭の雌牛となって突進をするものの、クー・フランは毎度それらを傷つける。彼が敵を打ち破った後、モリガンは乳搾りをする老婆として現れる。その体には動物の姿のときにクー・フランから受けた傷が残っていた。老婆はクー・フランにミルクを3杯与え、クー・フランが1杯ごとに祝福すると、その傷が一つずつ癒やされる。

ある辛い戦いを越えたとき、クー・フランのもとに光の神であるルグが訪れる。ルグは自分がクー・フランの父であることを明かし、彼を三日三晩眠らせて癒やしの技を施した。彼が眠っている間に援軍に来たアルスターの若者の一団は、みな殺されてしまう。クー・フランが目覚めると、彼は恐るべき「ねじれの発作(riastrad)」に襲われ、敵も味方も分からない怪物に変貌する。コナハトの野営地を強襲した彼は、殺された一団の6倍もの敵を虐殺した。

この尋常ならざる事件の後も、一騎打ちが続くが、メイヴがたまに数人を一度にけしかけてくることもあった。養父であるフェルグスが送られてくると、クー・フランは次の機会には降伏してもらうという条件で降伏することに合意する。結局、叔父と親友フェル・ディアとの3日に渡る激闘の末、クー・フランは魔槍ガエ・ボルグをもってフェル・ディアを殺して勝利する。

最終的に、衰弱していたアルスター人が一人ひとりと復帰して、全体が回復すると、最終決戦が始まる。はじめクー・フランはその傷を癒やすため参加しなかった。フェルグスはアルスターの王コンホヴァルを掌中に収めるものの、その息子であり自身の養子でもあるコルマク・コン・ロンガスに止められ殺すことができず、怒りに任せて愛剣カラドボルグで3つの丘の頂を切り飛ばした。ついに戦いに参加したクー・フランがフェルグスと対峙すると、フェルグスは約束を守って降伏し、武装解除した。コナハトの他の軍団は総崩れとなり、メイヴは退却を強いられる。しかし、メイヴはなんとかドン・クールンギャをコナハトに連れ帰る。ドン・クールンギャは、フィンヴェナハと戦って殺すものの、自らも深く傷つき、アイルランド中を彷徨した末に力尽きて故郷に戻って死んだ。これがいくつかの地名の由来になったという。

20世紀初頭のリパブリカンロイヤリストによって受容された[2]、死んでもなお敵に立ち向かえるように杭に体を縛り付けた瀕死のクー・フランの像は、クーリーの牛争いではなく、それ以降の物語からのものである。しかし、口伝ではときどき見られるような、フェル・ディアとの戦いで受けた傷で死ぬという語りの場合、このイメージが取り込まれていることがある。
テクスト

3種の校訂本が現存する。第一稿本は、クロンマクノイズ修道院で編纂された11世紀後半から12世紀前半の写本赤牛の書(Lebor na hUidre)』の一部と、『レカンの黄書(Yellow Book of Lecan)』の一部からなる。この2つの原稿は一部重なっており、組み合わせることで完全なテクストが再構成できる。重複するエピソードがあることや、「他の版」への言及があることから、この稿本は、2つ以上のより古い版を編集したものであると考えられている[3]。エピソードの多くは充実したもので、優れた古アイルランド語文学に特徴的な簡潔な散文によって書かれているが、分かりづらい要約程度のエピソードもあり、全体としてはつながりを欠いている。この稿本の一部は、言語的特徴からみて8世紀まで遡ると思われ、その韻文の部分に関してはより古い可能性がある。

第二稿本は、『レンスターの書』として知られる12世紀の写本の中に含まれる。書記の際に、『赤牛の書』と『レカンの黄書』の現存しない記述を統合して、一貫した叙事詩として書かれたものと思われる。結果として、全体として十分に物語といえる体裁を得、言葉も当時の美文体へと書き直された一方で、その過程でもともとの表現の簡潔さは失われた。

『レンスターの書』版は、ラテン語で次のような奥付が付されている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}しかしこの本、このおとぎ話を書いた私は、その中の出来事の実在を信じるものではない。いくつかは悪魔のまやかしか、詩的な虚構であろう。あるものはありえたろうし、ありえなさそうなものもある。


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