クーデンホーフ光子
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クーデンホーフ=カレルギー光子
Mitsuko Coudenhove-Kalergi
クーデンホーフ=カレルギー伯爵家
クーデンホーフみつ、1896年。1903年より夫の改姓によりクーデンホーフ=カレルギー姓に。みつは後に自らを光子(みつこ)と名乗る。

全名マリア・テクラ・ミツ・フォン・クーデンホーフ=カレルギー伯爵夫人
Maria Thekla Mitsu von Grafin Coudenhove-Kalergi
身位伯爵夫人
出生 (1874-07-24) 1874年7月24日
日本東京府牛込
死去 (1941-08-27) 1941年8月27日(67歳没)
ドイツ国大ウィーンメードリング
埋葬ヒーツィング墓地(ウィーン)
配偶者ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー
子女ハンス、リヒャルト、ゲロルフ(ゲオルフ)、エリザベート、オルガ、イダ(イーダ)、カルル
父親青山喜八
母親青山津禰
宗教仏教、のちキリスト教カトリック教会
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クーデンホーフ=カレルギー光子(Mitsuko Coudenhove-Kalergi, 1874年7月24日 - 1941年8月27日)、旧名:青山 みつ(あおやま みつ)は、オーストリア=ハンガリー帝国の貴族ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の妻で、パン・ヨーロッパ運動によりEUの礎を築いたリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の母。美術評論家で戦後の日本の文壇のパトロンであった青山二郎の母親と光子は従姉妹でもあった。

日本人でただ1人、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と会話した人物である。目次

1 生涯

1.1 生い立ち

1.2 結婚

1.3 オーストリアへ

1.4 夫の急死

1.5 息子の結婚

1.6 没落

1.7 死去


2 ロブマイヤーのMitsuko

3 ゲランのMitsouko

4 関連書籍

5 関連項目

6 脚注

6.1 注釈

6.2 出典注


7 参考文献

8 外部リンク

生涯
生い立ち

クーデンホーフ光子こと青山みつは、東京府東京市牛込区牛込納戸町油屋骨董品店を営む肥前国佐賀出身の青山喜八と妻・津禰(つね)の三女として生まれた。小学校を卒業後に上流階級の社交の場であった会員制高級料亭の紅葉館で女中として奉公をしていた。大日本帝国憲法施行後の1892年明治25年)、当時のオーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理大使として東京に赴任してきたハインリヒ・クーデンホーフ伯爵に見初められ、大使公邸に小間使いとして奉公する。クーデンホーフ伯爵が騎馬で移動中に落馬したのを、みつが手当てしたのがなれ初めだといわれるが定かではない。
結婚

1893年、周囲が反対する中、みつはハインリヒと結婚する。みつ(光子)は日本在住のフランス人カトリック神父リギョール(Francois A. Ligneul)[* 1]のもとで洗礼、告解、堅信式を行った[1]

夫のハインリヒはリギョールを崇拝していた[1]。長男・ハンス光太郎、次男・リヒャルト栄次郎の2人の子を東京でもうけた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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