クンドゥン
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クンドゥン
Kundun
監督マーティン・スコセッシ
脚本メリッサ・マシスン
製作バーバラ・デ・ティーナ
製作総指揮ローラ・ファットリ
音楽フィリップ・グラス
撮影ロジャー・ディーキンス
編集セルマ・スクーンメイカー
配給 ブエナビスタ
東北新社
公開 1997年12月25日
1999年7月10日
上映時間135分
製作国 アメリカ合衆国
言語英語
チベット語
中国語
製作費$28,000,000[1]
興行収入$5,684,789[1]
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『クンドゥン』(原題: Kundun)は、ダライ・ラマ14世の半生を描いた、1997年アメリカ映画マーティン・スコセッシ監督、メリッサ・マシスン脚本。

1998年のアカデミー賞に於いて4部門がノミネートされた。
概要

チベットの最高指導者ダライ・ラマ14世の、インド亡命に至るまでの前半生を描いた伝記映画で、ダライ・ラマ14世自身がさまざまなアドバイスを提供した。出演者はダライ・ラマの甥の息子が主役を演じて、母親役もダライ・ラマの実母の親族など、俳優としては素人の亡命チベット人が大多数をしめた。撮影は当初インド北部が予定されたが叶わず、チベット高原に見た目がよく似たモロッコで行われた。

監督はイタリア系移民の子でカトリックの教育で育ったマーティン・スコセッシ、脚本は自身がチベット仏教に帰依したメリッサ・マシスン(当時は俳優ハリソン・フォードの妻)、音楽のフィリップ・グラスもチベット仏教徒であった。

題名のクンドゥンは彼の尊称 Kundun (チベット文字:.mw-parser-output .uchen{font-family:"Jomolhari","Uchen","Noto Serif Tibetan Medium","Noto Serif Tibetan","BabelStone Tibetan Slim","Yagpo Tibetan Uni","Noto Sans Tibetan","Microsoft Himalaya","Kailash","DDC Uchen","TCRC Youtso Unicode","Tibetan Machine Uni","Qomolangma-Uchen Sarchen","Qomolangma-Uchen Sarchung","Qomolangma-Uchen Suring","Qomolangma-Uchen Sutung","Qomolangma-Title","Qomolangma-Subtitle","DDC Rinzin","Qomolangma-Woodblock","Qomolangma-Dunhuang"}.mw-parser-output .ume{font-family:"Qomolangma-Betsu","Qomolangma-Chuyig","Qomolangma-Drutsa","Qomolangma-Edict","Qomolangma-Tsumachu","Qomolangma-Tsuring","Qomolangma-Tsutong","TibetanSambhotaYigchung","TibetanTsugRing","TibetanYigchung"}?????????; ワイリー方式:sku mdun、文字通りには「御前」)に由来する。これはチベット人がダライ・ラマに敬愛と親愛の情を込めて呼ぶときの尊称で、「尊いもの」または「存在(Presence)」というような意味を持ち、法王法王猊下とも意訳される。
あらすじ

1937年、僧侶の召使いに変装した高僧がチベット東部アムド(現・中華人民共和国青海省)の田舎にある質素な農家に立ち寄る。その家のラモ・ドンドゥプという末っ子の幼児は高僧になつき、彼が首にかけている数珠を「これは僕のだ」と言い張る。今度は本来の服装で家を尋ねた高僧は、誰か著名な高僧の遺品を、よく似た物品と並べてラモ(「守護者」の意)に見せると、ラモはことごとく本物の遺品を言い当てる。高僧たちは感動し、思わず「クンドゥン」と呟く。どうやらラモは誰か高位の僧化身ラマの転生者として認定されたらしい。だがそのこと自体は、ラモの家族にとって名誉なことではあるが、そんなに珍しいことにも思えなかった。

2年後、迎えに来た僧侶たちに連れられ、ラモ少年と家族はラサへ向かう。すでに近所の僧院で修行する身のラモの長兄は「お前は立派なお坊さんになるんだよ。怖がることはない。こうやって見つけられた子どもは今までにもたくさんいたし、これからだっている」と言う。宿営地で頭が剃られるのをいやがって逃げ出したラモは、摂政のレティン・リンポチェのテントに逃げ込む。レティンは彼を「クンドゥン」と呼び、生きとし生けるものすべてを愛するために、またこの世に生まれ変わって来たのだと告げる。

なにやら仰々しい儀式で上座に座らされたラモに、レティンは「観音菩薩の化身、願いを叶えたもう宝珠、第14世ダライ・ラマ」と呼びかける。数珠も様々な遺品も1933年に崩御したダライ・ラマ13世の遺品であり、ラモはその転生として認定されたのだった。

ダライ・ラマになったラモは歴代法王の住居でありチベットの政治宗教の中心であるラサのポタラ宮に住むことになり、遊び相手としてすぐ上の兄と一緒に育てられる。だが親と離され、高僧たちに囲まれ、暗く重々しいポタラに、幼いダライ・ラマはなかなかなじめない。養育係を務めるポタラ宮の給仕長ポンポは、「夏の離宮の方が気に入るでしょう」と言う。その夏の離宮、ノルブリンカ宮には両親の家もあり、彼は動物と豊かな自然に囲まれて無邪気にのびのびと育つ。

5年後、1944年第二次世界大戦のことも外国の雑誌やニュース・フィルムで見るくらいの、平和に見えるポタラ宮で、ダライ・ラマは仏教の哲学を学び、様々な修行を受けて利発で好奇心旺盛な少年へと成長している。ある晩、彼は摂政のレティンと側近の高僧タクバ・リンポチェが密談しているのを聞いてしまう。タクバはレティンに、摂政の位を辞任して隠遁するように薦めていた。ある日、ダライ・ラマ少年は西洋からの贈り物である望遠鏡で街を見ていて、ポタラ宮内の建物の屋上に足を鎖で繋がれた男がいるのを見る。閣議でレティンの辞任が報告され、ダライ・ラマはタクバを摂政に任命する。

仏教教義の試験をダライ・ラマが受けているとき、突然銃声がポタラ宮に響く。僧侶たちは少年の頭から袈裟をかぶせ、慌てて保護する。「あなたのお耳に入れるようなことではありません」と言う高僧たちに、少年ダライ・ラマは「なぜ僕が聞いてはいけないのか」と怒る。しぶしぶ説明する側近たちによると、レティンが摂政位に復帰しようとして逮捕され、その一派の僧たちが発砲したのだと言う。「僧が銃を持ってるの?」とショックを受けるダライ・ラマ。逮捕されたレティンはポタラ宮内の牢獄に収監されたという。「ポタラに牢獄があったのか」とさらにショックを受けるダライ・ラマに、宮内長官のパラが「ポタラには昔から牢獄があります」と言いにくそうに伝える。レティンのクーデター未遂について質問するダライ・ラマだが、パラたちは「いろいろ複雑な事情がありまして」としか言ってくれない。ダライ・ラマはレティンに会いたいというが制止され、「彼は私を見いだしてくれた人だ。私の師だ。良い待遇をするように」としか言えない。中国のことを訊ねても、「それもいろいろ複雑な事情がありまして」との返事。中国側がチベットを中国の一部だと主張し始めていると言われ、ダライ・ラマは「チベットがチベットだ」と言う。タクバが「我々と中国は、その点では決して同意しないということで同意して来たのです」と説明する。チベットと自分の置かれた複雑な政治的立場がなんとなくには分かって来た少年ダライ・ラマは、「これから多くのことを変えなければいけない」と決意する。パラがダライ・ラマ13世が後継者に残した手紙を読み聞かせる。少年のダライ・ラマは「僕に何が出来るの? ただの子どもなのに」としか言えない。パラは「あなたはこの手紙を書いた人であり、我々を導くために生まれ変わって来たのです」という。そしてレティン・リンポチェの服毒自殺が報告される。ダライ・ラマの父が亡くなり、鳥葬が行われる[2]

5年後、1949年。数え歳で16歳になったダライ・ラマに、摂政タクバ・リンポチェが中国で中華人民共和国が成立したこと、毛沢東が「チベットが中国の一部であることを認める」などの三つの条件を突きつけて来たことを報告する。タクバはダライ・ラマに正式に元首として即位することを進言するが、彼は「私はまだ少年だから」と躊躇する。歴代のダライ・ラマは18歳で即位しているから、自分もそれまでは待って欲しい、と。だが人民解放軍がチベットに侵攻を開始、ダライ・ラマは即位して即座にインド国境に近いドゥンカル僧院に避難することになる。


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