クワメ・エンクルマ
Kwame Nkrumah
ガーナ
初代 大統領
任期1960年7月1日 – 1966年2月24日
ガーナ
初代 首相
任期1957年3月6日 – 1960年7月1日
英領ゴールド・コースト
初代 首相
任期1952年3月21日 – 1957年3月6日
女王エリザベス2世
アフリカ統一機構
第3代 議長
任期1965年10月21日 – 1966年2月24日
出生 (1909-09-21) 1909年9月21日
英領ゴールドコースト、ンクロフル
死去 (1972-04-27) 1972年4月27日(62歳没)
ルーマニア、ブカレスト
政党会議人民党
フランシス・クワメ・エンクルマ(英: Francis Kwame Nkrumah、1909年9月21日 - 1972年4月27日)は、政治家。ガーナ初代大統領。ガーナの独立運動を指揮し、ガーナとギニアから成るアフリカ諸国連合を樹立してアフリカの独立運動の父といわれる。アフリカ統一機構第3代議長。「エンクルマ」は語頭で「ン」を発音することができない英語から入ってきた読み方。日本語ではすでにアフリカ専門家の書籍や事典などではンクルマと表記されることが多い(例『アフリカを知る事典』平凡社 2010)。
前半生(英語版)のサブグループであるンズイマ人(ンゼマ人)の鍛冶屋の家に生まれる。ガーナ南部のアカン人のあいだでは生まれた曜日と性別によって自動的に名前が決まるため、土曜日に生まれた男児である彼にはクワメの名がつけられた[2]。1927年に首都アクラのアチモタ・スクールに入学し、1930年に卒業後[3]、エルミナのローマ・カトリックの小神学校の教師となり、1年後にはアクシムのカトリックの学校で教鞭をとり、さらに2年後には近郊のアミサノで神学校教師となった[4]。
幼少より成績優秀だったため、1935年、親族に借金してセコンディ・タコラディ港からアメリカ合衆国に渡り、リンカーン大学に入学した。1935年、イタリアのエチオピア侵攻を聞いて激怒し、植民地制度の打倒を志す。奨学金を取りながら苦学し、1942年、ペンシルベニア大学大学院にて教育学の修士号を、翌年には哲学の修士号を取得[5]。この間、アメリカやカナダに滞在するアフリカ人留学生の組織化につとめた。このころ、マーカス・ガーベイやC・L・R・ジェームズ、W・E・B・デュボイスの思想に影響を受け、パン・アフリカ主義の立場をとるようになった。
1945年5月にはイギリスに渡り、ロンドンで西アフリカ学生同盟の副会長に就任[6]して、宗主国で優遇されるアフリカ出身のエリートの説得に奔走した。同年、マンチェスターで開かれた第五回パン・アフリカ会議ではのちに盟友となるジョージ・パドモアと共に書記を務めた。この会議にはエンクルマのほか、ケニアのジョモ・ケニヤッタ、マラウイのヘイスティングズ・カムズ・バンダ、ナイジェリアのオバフェミ・アウォロウォなどアフリカ大陸の独立指導者が多く参加し、これまでの欧米在住の黒人にかわってアフリカ大陸出身者がパンアフリカニズムの中心となるきっかけとなった。また、この時に国際会議事務局が設置され、エンクルマとパドモアが書記に、ケニヤッタが書記補に就任した[7]。 第二次世界大戦後、エンクルマの故国である英領ゴールドコーストでは自治権要求運動がさかんになった。そんな中、1947年に植民地エリートや伝統首長を中心に連合ゴールドコースト会議
独立運動
1948年1月、おりからの物価高騰などにより不満を爆発させた市民が首都アクラでヨーロッパ商品の不買運動を始め、2月には暴動に発展した。この暴動は連合ゴールドコースト会議が起こしたものではなかったが、植民地当局は同党が煽動をおこなったとして、党の首脳部6人(エンクルマ、エマニュエル・オベツェビ=ランプティ、J.B.ダンカ、エドワード・アクフォ=アド、ウィリアム・オフォリ=アタ、エベネゼル・アコ=アジェイ)の6人を逮捕した。しかしこれにより同党の人気はさらに高まった。
これに驚いた宗主国イギリスは調査団をゴールドコーストに派遣し、調査団は自治の拡大とアフリカ人主体の立法評議会の設置を提言した。この提言に対しもともと富裕層中心で穏健だった連合ゴールドコースト会議は賛成したが、エンクルマは即時自治の要求を掲げて党首脳部と対立し、1949年にはエンクルマは脱党して新党である会議人民党(英語版)を結成し、ストライキやボイコットといった強硬な政策を中心とした「ポジティブ・アクション」を打ち出した。これにより会議人民党は下層住民の支持を受け、党勢は急速に拡大。1950年1月には即時自治を求めてデモを行い、デモ隊と警官隊が衝突した。この責任を問われ逮捕されるが、調査団の提言を元に制定された1951年憲法のもとでおこなわれた1951年2月の選挙で改選38議席中34議席を占める大勝利で会議人民党は第一党となり、獄中から立候補していたエンクルマも当選し、釈放された。会議人民党が議会の多数を占めたため、チャールズ・アーデン・クラーク総督はエンクルマに組閣を命じ、エンクルマは政府事務主席の座に就いた。
政府事務主席の座に就くと、エンクルマは交渉による平和的な方法でのイギリスからの独立に方針を転換した。1952年には政府事務主席を首相と改称し、初代英領ゴールド・コースト首相となる。1954年には新憲法を制定して国内の自治をイギリスに認めさせ、同年新憲法下でおこなわれた選挙においても会議人民党は104議席中72議席を獲得して圧勝。独立はこれによりほぼ既定路線となった。
しかし、中央集権的な政権を目指すエンクルマに対し、旧来の大王国を持ち経済的にもゴールドコーストで最も豊かなアシャンティ地方が反発。暴動が勃発し、英国政府は独立の前に総選挙をおこなって民意を確定することを求めた。1956年に行われた選挙で、ダンカやコフィ・ブシアが率いる旧アシャンティ王国を地盤とする国民解放運動はアシャンティ以外で議席を伸ばせず、会議人民党政権は信任を受けた形となった。同年、国連信託統治領トーゴランドの帰属を確認する住民投票が行われ、北部ではゴールドコーストへの統合、エウェ人の多い南部ではフランス領トーゴとの統合を求める票が多かったが、全体としてはゴールドコーストとの統合票が過半数となり、国連信託統治領トーゴランドは英領ゴールドコーストへと統合された[8]。
そして、1957年にゴールドコーストはイギリス領トーゴランドと共にイギリスより英連邦王国内の立憲君主国として独立、国号を西アフリカ最初の大王国であったガーナ王国にちなんでガーナと名づけ、エンクルマは初代ガーナ共和国首相に就任した。 エンクルマは政権の座に就くと、何よりもまずパン・アフリカ主義のもとアフリカ諸国の独立支援と国家間の連帯に力を入れた。まず同志であるパドモアをガーナへと招聘し、外交政策におけるブレーンとした。
独立後
外交