クローヴィス1世_(フランク王)
[Wikipedia|▼Menu]

クローヴィス1世
Clovis I
フランク国王
クローヴィス1世(Dejuinne作)
在位481年-511年

出生466年
トゥルネー(現ベルギー
死去511年11月27日
フランスパリ
埋葬511年
サント=ジュヌヴィエーヴ修道院から
サン=ドニ大聖堂に改葬
配偶者クロティルダ
子女一覧参照
王朝メロヴィング朝
父親キルデリク1世
母親バシナ[注釈 1]
宗教カトリック
テンプレートを表示

クローヴィス1世[注釈 2](クローヴィス1せい、: Clovis Premier, フランス語発音: [kl?.vis]発音例 :Chlodwig I.,466年頃 - 511年11月27日)は、メロヴィング朝フランク王国の初代国王(在位481年 - 511年)である。日本では大半の書籍[注釈 3]でクローヴィス1世の表記が用いられる。

クローヴィスは一夫多妻制の生活を送っていたが、妻の1人であった王妃クロティルドの影響で、キリスト教アタナシウス派カトリック教会)に改宗して、これを保護したのでガリアでの布教活動に大きな貢献があった。
生涯

サリー・フランク族キルデリク1世を父、その妻バシナ(英語版)[注釈 1]を母としてトゥルネー(現ベルギー領)で生まれた。当時は現代のフランスベルギー国境付近のトゥルネー、カンブレーを中心とするライン川低地西部を占めていたに過ぎなかった。

クローヴィスは481年頃に父の地位を継承した[2]486年までの5年間については何も分かっていない[3]486年にはガリア北部を支配していたソワソン管区シアグリウスソワソンの戦いで破り[4]、版図を一挙にロワール川北部に拡大[4]、ローマ属州ベルギカ・セクンダを支配下に治めた[5]。さらにクローヴィスは妹のアウドフレドを東ゴート王国テオドリックに嫁がせて同盟を固め、493年にはブルグント王国の王女クロティルドとソワソンで結婚した。

496年から497年にかけて、トルビアックの戦い(英語版)でアラマンニ人に勝利した後、王妃クロティルドの薦めでカトリックに改宗した。ニカイア派キリスト教徒たるクローヴィスは、受洗によりカトリック信仰に依拠する権力保持者の一人となった[6]。この改宗はゲルマン民族諸王の中で初めて行われたカトリックへの改宗であった。一方、西ゴート族ヴァンダル族はすでにキリスト教に改宗していたが、その宗派はアリウス派であった。当時のガリア住民は大部分カトリックであったため、クローヴィスのカトリック改宗はガリア領内のローマ市民との絆を強化するものであった。クローヴィスは496年から502年までの間に改宗の洗礼を受けたとされるが、史料ではその場所は明らかになっていない。しかし、9世紀にランス大司教のヒンクマールが受洗場所はランスだと強く主張したため、レミギウスがクローヴィスに洗礼を授けたとされるノートルダム大聖堂で歴代フランス王たちの戴冠式が執り行われるところとなった。

500年にはディジョンでブルグント王国と戦い、507年にはアルモリカ人の支援を得てヴイエの戦い西ゴートアラリック2世を破った。この勝利で勢いをつけたクローヴィスはそのまま西ゴート王国の首都トゥールーズまで進軍し、アキテーヌの大部分を獲得した[7]。フランク王国の領土は北海からピレネー山脈まで大きく拡張され、南フランスを支配していた西ゴート王国はイベリア半島に押し込められた。

この遠征の後の508年、クローヴィスには東ローマ皇帝アナスタシウス1世から「アウグストゥス」の称号が贈られ[8]、西ローマ帝国の執政官に就任した[9][10][注釈 4]。その儀式の日、クローヴィスはトゥール郊外にある聖マルティヌス教会堂で、皇帝から送られた紫衣をまとい、皇帝から送られた冠を戴いた[10][11][8]。教会堂を出たクローヴィスは馬にまたがり、前庭の門から市の中央教会へと続く道を、住民の「コンスル(執政官)万歳、アウグストゥス万歳」という歓呼に迎えられながら行進した[8][11][12][13]。そして、この日から彼は、コンスルまたはアウグストゥスと称されるようになった[12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:50 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef