クローンベルク・イム・タウヌス
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紋章地図
(郡の位置)

基本情報
連邦州:ヘッセン州
行政管区:ダルムシュタット行政管区
郡:ホーホタウヌス郡
緯度経度:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯50度10分47秒 東経08度30分31秒 / 北緯50.17972度 東経8.50861度 / 50.17972; 8.50861座標: 北緯50度10分47秒 東経08度30分31秒 / 北緯50.17972度 東経8.50861度 / 50.17972; 8.50861
標高:海抜 257 m
面積:18.58 km2
人口:

18,322人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:986 人/km2
郵便番号:61476
市外局番:06173
ナンバープレート:HG, USI
自治体コード:

06 4 34 006
行政庁舎の住所:Katharinenstrase 7
61476 Kronberg im Taunus
ウェブサイト: ⇒www.koenigstein.de
首長:クリストフ・ケーニヒ (Christoph Konig)
郡内の位置

地図

クローンベルク旧市街

クローンベルク・イム・タウヌス(ドイツ語: Kronberg im Taunus, [?kro?nb?rk ?m ?m ?ta?un?s][2]、1933年10月17日までは Cronberg と表記された)は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州ダルムシュタット行政管区に属すホーホタウヌス郡の市である。州指定のルフトクアオルト(空気の清浄な保養地)であるこの街は、ライン=マイン地方の人口集積地であるフランクフルト都市圏の一部である。都市名は、1220年から1704年までクローンベルク騎士家の主城であったクローンベルク城に由来する。

フォルダータウヌス、特にクローンベルクと隣接するケーニヒシュタイン・イム・タウヌスとは邸宅が建ち並ぶ高級住宅地として知られている。クローンベルクはドイツで3番目に裕福な自治体と見なされている[3]。さらにクローンベルク・イム・タウヌス市は2007年の平均購買力インデックスが連邦平均の 179 % を示した[4]。この値は連邦全体のトップクラスの数値である。
地理
隣接する市町村

クローンベルクは、西はケーニヒシュタイン、北と東はオーバーウルゼル、南東はシュタインバッハ(以上いずれもホーホタウヌス郡)、南はエシュボルンおよびシュヴァルバッハ(ともにマイン=タウヌス郡)と境を接している。
市の構成

クローンベルク・イム・タウヌス市は3つの市区で構成されている: クローンベルク(7,834人)、オーバーヘーヒシュタット(6,304人)、シェーンベルク(3,616人)である(人口は2016年12月31日現在)[5]
街の姿

クローンベルクはタウヌス山地の麓に位置し、北、西、東を森で囲まれている。クローンベルク城と13世紀から16世紀の本市で最も古い建築であるフライ塔(ベルクフリート(ドイツ語版、英語版))を有する保存状態の良い旧市街の他に、「ヘルホーフ」(クローンベルク家が建設した貴族館で、1424年に初めて記録されている。現在一部がギャラリーに改築されている)、「レセプトゥールホーフ」(マインツ選帝侯領の行政施設)、1440年に建造された福音主義の聖ヨハン教会、フリードリヒスホーフ城館に改築された1758年建造の「闘争教会」(1889年から1893年まで城館として用いられた。1954年以降はクローンベルク城館ホテル)、ヴィクトリアパーク、栗林、果樹園、クローンタール水源公園内のクローンタール鉱泉が見所である。

クローンベルクは、1966年6月28日から州指定のルフトクアルト(空気の清浄な保養地)となっている。
歴史アルトケーニヒの環状土塁跡

クローンベルク周辺の古代集落跡から様々な出土品が現れている。アルトケーニヒ(海抜 798 m)には紀元前400年頃、ラ=テーヌ時代初期の環状土塁がある。カロリング朝時代にはすでに、ヒューナーベルクに環状土塁などの防衛施設が設けられていた。

782年8月24日のロルシュ文書(ドイツ語版、英語版)に Heichsteter marca(ニーダーヘーヒシュタットおよびオーバーヘーヒシュタット)が初めて記録されている。
1220年 - 1704年

1220年頃(ゲルト・シュトリックハウゼンによれば12世紀中頃)にクローンベルク城が建設されたことで、すでにエッシュボルンにモットを所有していた Ritter von Askenburne(エッシュボルン騎士家)は分裂した。「フリューゲル家」は1250年頃にクローンベルクに入城し、これにちなんで「クローンベルク家」を称した(この家系は1617年10月8日にヨハン・エーバーハルトの死によって断絶した)。「フォン・エッシュボルン」という名称は史料には現れない。

1330年4月25日、ハルトムート・フォン・クローンベルクとヴァルター・フォン・クローンベルクは城山の斜面の小さな集落に対する最初の限定的な都市権を皇帝ルートヴィヒ4世によって与えられた。1367年3月31日、皇帝カール4世はウルリヒにクローンベルク開墾地の市場開催権と重罪刑事裁判権(ドイツ語版、英語版)を授けた。1389年のエシュボルンの戦い

1389年、クローンベルク騎士家はハットシュタイン家およびライフェンベルク家とともにフランクフルト市に対していわゆるクローンベルガー・フェーデを宣言した。5月13日大動員されたフランクフルト兵がクローンベルク城に出兵した。ハーナウ軍とプファルツ選帝侯軍がクローンベルクを救援するためにこれを包囲した。5月14日の「エッシュボルンの戦い」でフランクフルトが敗れ、600人以上が捕虜となったが、この中には貴族の参事会員や強制的に動員されたツンフト会員(肉屋、鍵屋、靴屋、パン屋)もいた。リムブルク年代記は以下のように記している。「小さな群れが大きな群れを打ち倒した。これは奇跡じゃない。大きな群れは逃げだし小競り合い。おお、フランクフルト! フランクフルト! この戦いを記憶に刻め!」

1389年8月22日の交渉で、当時としては法外な額の身代金 73,000グルデンでフランクフルトとの戦いを終結させた。フランクフルトはこの支払いに約120年間苦しみ、「フランクフルター・ラントヴェール」(国境防衛施設)の建設を始めた。しかしその後すぐに和平協定が結ばれ(1391年)、クローンベルクとの同盟が模索された。1394年にフランクフルト議会はハルトムート・フォン・クローンベルクを2年間ボナメスの吏官に任命した。1395年にヨハン・フォン・クローンベルクは詳細な同盟条約を策定した。そこではクローンベルクがフランクフルト市民とそのメッセを護る義務を負うとされていた。最終的には1398年に条約が結ばれた。この書状は、現存するドイツ最古の保護条約文書とされている。1390年に、現在はノイシュタット(新市街)と呼ばれている、第2の市壁が建設された。1655年のマテウス・メーリアンの銅版画に描かれたクローンベルク

ハルトムート12世フォン・クローンベルクが、いとこのフランツ・フォン・ジッキンゲン(ドイツ語版、英語版)によるトリーアおよびヴォルムス攻撃を援助していたため、1522年トリーア大司教リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ・ツー・フォルラーツルートヴィヒ・フォン・デア・プファルツヘッセン方伯フィリップはクローンベルクの街と城を包囲し、無条件降伏を引き出した。ハルトムートは逃亡した。しかしクローンベルクは帝国レーエンであったためフィリップは、ルター派教会の守護権を分割する条件で、1541年に城と街をハルトムートに返還しなければならなかった。この守護権はヘッセン=ダルムシュタット方伯によって17世紀および18世紀にその有効性が確認された。


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