クロード=アドリアン・エルヴェシウス(Claude-Adrien Helvetius、1715年1月26日?1771年12月26日)は、18世紀フランスの哲学者、啓蒙思想家。親交のあったドルバックとともに、啓蒙時代の唯物論の代表的作家とされる。その名は、”エルベシウス”と表記されることもある[1]。 1715年、スイスからパリに移住した医者の家系に生まれる。エルヴェシウスという名は、スイスのラテン語古名ヘルヴェティアのフランス語化。父親ジャン=クロード=アドリアンは、ルイ15世の王妃マリー・レクザンスカの筆頭侍医[2]。 イエズス会経営の学校で学び[3]、1738年、23歳の時に王妃の引き立てで徴税請負人となり、1751年まで務めた[2]。1751年にグラフィニー夫人の姪アンヌ=カトリーヌ・リニヴィル(愛称ミネット)[4]と結婚。結婚後、王妃の司厨長の地位を購入し、冬場を除く一年の大半をパリ市内にある自分の領地で学問研究に没頭しつつ、領地住民のためには靴下工場を作った[5]。 徴税請負人の時代に詩作を始めてヴォルテールの指導を受けていたが、徐々に哲学へ関心を移していった[6]。 最初の著作『精神論』は、国王の出版許可を得て1758年7月に刊行されたが、その直後に反道徳的としてカトリック陣営から強い批判があり、同年8月出版許可が取り消され、公けに販売することができなくなった。しかしこの問題はその後さらに拡大し、11月、パリ大司教ボーモンによって弾劾され、翌年1月、刊行中の『百科全書』などとともにパリ高等法院に告発された。判決は、告発された書籍の内容に応じて出され、『精神論』は2月に焚書処分の裁定を受けた。この間、エルヴェシウスは自己批判の撤回文を数度公開した。これに続いて同年5月には、パリ大学神学部によって断罪された。一方、この騒動のあおりを受けて、『百科全書』も出版を継続することができなくなった。『精神論』出版許可取消にはじまる一連の出版弾圧は、「精神論事件」として知られている[7]。 これらの騒動にもかかわらず、1759年5月には、ドズリーによって『精神論』の英訳が出版され、エルヴェシウスの思想はイギリス思想界にも影響を与えた。ただし、『精神論』刊行当時は英仏七年戦争の最中であり、エルヴェシウスが渡英してヒュームらイギリスの知識人と直接会うのは七年戦争終結後のことである。 その後同じ思想のもとに『人間論』を書いたが、弾圧を怖れて生前は刊行せず、この著作はエルヴェシウスの死後に出版された[8]。 大富豪だったエルヴェシウスは自宅にサロンを開き、当時の啓蒙思想家であるヴォルテールや百科全書派のディドロ、ダランベール、ジャーナリストのシュアール
生涯