クロード・モネ
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クロード・モネ
Claude Monet
ナダール撮影(1899年)
本名オスカル=クロード・モネ
Oscar-Claude Monet
誕生日 (1840-11-14) 1840年11月14日
出生地 フランス王国パリ
死没年 (1926-12-05) 1926年12月5日(86歳没)
死没地 フランス共和国ジヴェルニー
墓地 フランスジヴェルニー教会墓地[1]
墓地座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯49度4分39.1秒 東経1度31分24.7秒 / 北緯49.077528度 東経1.523528度 / 49.077528; 1.523528
国籍 フランス
運動・動向印象派
芸術分野絵画(油彩画)
教育アカデミー・シュイスシャルル・グレール画塾
代表作『印象・日の出』、「積みわら」連作、「ルーアン大聖堂」連作、「睡蓮」連作
後援者ポール・デュラン=リュエルギュスターヴ・カイユボットエルネスト・オシュデ
影響を受けた
芸術家ブーダンヨンキントコロードービニークールベマネ
影響を与えた
芸術家印象派ポスト印象派
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クロード・モネ(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は、印象派を代表するフランス画家。代表作『印象・日の出』(1872年)は印象派の名前の由来になった[2]
概要

1840年にパリで生まれたが、5歳のころから少年時代の大半をノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごした。絵がうまく、人物のカリカチュアを描いて売るほどであったが、18歳のころに風景画家ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられた(→ル・アーヴル(少年時代))。1859年にパリに出て絵の勉強を始め、ピサロシスレーバジールルノワールといった仲間と知り合った(→画塾時代)。

1865年にサロン・ド・パリ(サロン)に初入選してから、サロンへの挑戦を続け、戸外制作と筆触分割の手法を確立していったが、1869年と1870年のサロンに続けて落選の憂き目に遭った。私生活では、カミーユ・ドンシューとの交際を始め、長男も生まれたが、父親からは援助が断たれ、経済的に苦しい時代が始まった(→サロンへの挑戦)。1870年普仏戦争が始まり、兵役を避けてロンドンに渡った。このとき画商デュラン=リュエルと知り合い、重要な支援者を得ることとなった(→普仏戦争、ロンドン)。パリに戻ると、その近郊アルジャントゥイユにアトリエを構え、セーヌ川の風景などを描いた。

1874年、仲間たちと、サロンとは独立した展覧会を開催して『印象・日の出』などを出展し、これはのちに第1回印象派展と呼ばれる歴史的な出来事となった。しかし、当時の社会からの評価は惨憺たるものであった。1878年まで、アルジャントゥイユで制作し、第2回・第3回印象派展に参加した(→アルジャントゥイユ(1870年代))。1878年、同じくセーヌ川沿いのヴェトゥイユに住み、パトロンだったエルネスト・オシュデとその妻アリス・オシュデの家族との同居生活が始まった。妻カミーユを1879年に亡くし、アリスとの関係が深まっていった。他方、印象派グループは会員間の考え方の違いが鮮明になり、解体に向かった(→ヴェトゥイユ(1878年-1881年))。

次いで1881年ポワシーに移り住み、ノルマンディー地方への旅行に出ている(→ポワシー(1881年-1883年))。1883年、これもセーヌ川沿いのジヴェルニーに移り、生涯ここで暮らした。1880年代には、地中海沿岸やオランダなど、ヨーロッパ各地に制作旅行に出かけることが多かった。1886年にニューヨークでデュラン=リュエルが印象派の展覧会を開いたころから、経済的に安定するようになった(→各地の制作旅行(1880年代))。1890年代には、ジヴェルニーの自宅周辺の『積みわら』や『ポプラ並木』、また『ルーアン大聖堂』を描いた連作に取り組んだ。このころには、大家としての名声が確立してきた。1892年、アリスを2人目の妻とした。また、日本美術愛好者の集い「Les Amis de l'Art Japonais_」(1892 - 1942[3])の会員でもあった(→「積みわら」からの連作(1890年代))。

1890年代、自宅に「花の庭」と、睡蓮の池のある「水の庭」を整えていったが、1898年ごろから睡蓮の池を集中的に描くようになった。1900年までの『睡蓮』第1連作は、日本風の太鼓橋を中心とした構図であったが、その後1900年代後半までの第2連作は、睡蓮の花や葉、さらに水面への反映が中心になっていき、1909年の『睡蓮』第2連作の個展に結実した。その間、ロンドンを訪れて国会議事堂の連作を手がけたり、1908年に最後の大旅行となるヴェネツィア旅行に出たりしている(→「睡蓮」第1・第2連作(1900年代))。

最晩年は、視力低下や家族・友人の死去といった危機に直面したが、友人クレマンソーの励ましを受けながら、白内障の手術を乗り越えて、オランジュリー美術館に収められる『睡蓮』大装飾画の制作に没頭し、86歳で最期を迎えた(→「睡蓮」の部屋(最晩年))。

モネのカタログ・レゾネには、油彩画2,000点以上が収録されている(→カタログ)。モネたち印象派の画家たちは、ロマン派(ドラクロワ)の豊かな色彩、コロードービニーバルビゾン派の緻密な自然観察、クールベの写実主義と反逆精神、マネの近代性を受け継ぎ、伝統的なアカデミズム絵画の決めた主題、構図、デッサン、肉付法・陰影法に縛られない、自由な絵画を生み出した。モネは特に戸外制作を重視し、物の固有色ではなく、日光やその反射を受けて目に映る「印象」をキャンバスに再現することを追求した。絵具をパレットで混ぜずに、素早い筆さばきでキャンバスに乗せていくことで、明るく、臨場感のある画面を作り出すことに成功した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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