クロード・ドビュッシー
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クロード・ドビュッシー
Claude Debussy

基本情報
出生名Achille Claude Debussy
生誕 (1862-08-22) 1862年8月22日
フランス帝国サン=ジェルマン=アン=レー
死没 (1918-03-25) 1918年3月25日(55歳没)
フランス共和国パリ16区
学歴パリ音楽院
ジャンル印象主義音楽
職業作曲家
活動期間1884年 - 1916年
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クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy フランス語: [klod a?il d?bysi], 1862年8月22日 - 1918年3月25日)は、フランス作曲家長音階短音階以外の旋法と、機能和声にとらわれることのない自由な和声法などを用いて作曲し、その伝統から外れた音階と和声の用い方から、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家の一人[1]

ドビュッシーの音楽は、代表作『』や『夜想曲』などにみられる特徴的な作曲技法から「印象主義音楽(印象派)」と称されることもある。しかし、本人は「印象派」と呼ばれることを強く拒否した[2]。テクスト(詞)やテーマの選択は象徴派(象徴主義)からの影響が色濃い。

なお、名前は生後1890年(28歳)まで「アシル=クロード」、1890年(28歳)から「クロード=アシル」である。
生涯
幼少期

1862年8月22日午前4時半、イヴリーヌ県サン=ジェルマン=アン=レーのパン通り38番地に「アシル=クロード・ドビュッシー」として生まれた(この建物は現在ドビュッシー博物館となっている)[3][4]。父親のマニュエル・アシル・ドビュッシーは陶器店を経営し、母親のヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシーは裁縫師であった[4]。5人兄弟の長男として生まれているが、彼が2歳(1864年7月31日)になってから洗礼を受けている[4]。その年に一家は経営難のためサン=ジェルマン=アン=レーを離れ、母方の実家(クリシー)に同居する。

1870年カンヌに住む伯母クレメンティーヌ(父の姉に当たる)のもと、彼女の肝煎りでイタリアヴァイオリニスト、ジャン・チェルッティ(Jean Cerutti)にピアノを習う(期間は不明)[注釈 1][6]。このカンヌでの滞在は1回だけであったが、後年ドビュッシーは鮮烈な印象を残したと手紙の中で語っている[6]

1871年、詩人ヴェルレーヌの義母アントワネット・モテ・ド・フルールヴィル夫人に基礎的な音楽の手ほどきを受ける。これは、偶然にも父親の知人であったヴェルレーヌの義兄でオペレッタ作曲家のシャルル・ド・シヴリー (Charles de Sivry) と出会い、シヴリーが少年のドビュッシーを自分の母親のフルールヴィル夫人に引き合わせたとされる。夫人はドビュッシーの才能を見抜き、親身に彼を教えたという。

幼少期のドビュッシーについては、後年本人が語ろうとしなかったため、どのように過ごしたのかは不明である。ただしこの時期からピアノの手ほどきを受けていたことは確かである。
音楽院入学とローマ賞

1872年10月22日、10歳でパリ音楽院に入学する[7]。この時の合格者はドビュッシーを含むわずか33名であった。1年後、エルネスト・ギロー(作曲)、オーギュスト・バジュ(ピアノ伴奏法)、アントワーヌ・マルモンテル(ピアノ)、エミール・デュラン(作曲)、アルベール・ラヴィニャックソルフェージュ)らに学ぶ[8]。元々ピアニストになるつもりで、1873年の1月29日にJ.S.バッハの『トッカータ』(BWV915) を弾いた際、「魅力的な素質」と評価されて自信を持ち、ピアニストへの道に進むことを決めたという[9]1874年に学内のコンクールにおいてショパンピアノ協奏曲第2番の第1楽章を弾いて第2次席賞を獲得[10]。翌1875年にショパンの『バラード第1番』で第1次席賞を得るが、1876年には獲得できなかった [注釈 2]1877年にはシューマンの『ピアノソナタ第2番』(第1楽章)で再び第2次席賞を獲るが、1878年1879年は2年続けて賞が取れずに失敗し、これによってピアニストになることを諦める決心をした[11]。そして結局ピアノで賞を得ることができず(1位入賞を目標にしていたため)、その年にピアノ科を去り、10月にバジュ(バズィーユ)のピアノ伴奏法のクラスに入る[12]

一方でドビュッシーは作曲にも挑戦している。1878年にピアノ曲『フーガ』(L番号なし)を作曲し、これは現存するドビュッシーの最古の作品とされている。1879年に歌曲『月に寄せるバラード』(L.1、紛失)と『マドリード』(L.2、近年発見[13])を作曲する。

1880年7月、18歳のドビュッシーはチャイコフスキーパトロンであったフォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴し、『ピアノ三重奏曲』(L.3) や『交響曲 ロ短調』(L.10) の断片を作曲した[14]。また、『ボヘミア舞曲』(L.9) という小品を夫人の計らいでチャイコフスキーへ送るが、酷評を受けた(出版はドビュッシーの死後)。メック夫人を通して、チャイコフスキーの当時の最新作であった交響曲第4番1877年)などのロシアの作品も勉強しており、この経験が元でチャイコフスキーやロシア5人組に影響を受ける。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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