クロルオーパー
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クロルオーパー
Krolloper
クロルオーパー、1930年

情報
開館1844年2月15日
閉館1951年
用途高級娯楽施設、喜劇劇場、繊維製品倉庫、歌劇場、代替の国会議事堂ナチ時代
所在地ドイツベルリン
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯52度31分7秒 東経13度22分14秒 / 北緯52.51861度 東経13.37056度 / 52.51861; 13.37056 (クロルオーパー)座標: 北緯52度31分7秒 東経13度22分14秒 / 北緯52.51861度 東経13.37056度 / 52.51861; 13.37056 (クロルオーパー)
特記事項1957年解体
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クロルオーパー(ドイツ語: Krolloper, 時期によってKroll’scher Wintergarten, またはKrolls Etablissement) は、ドイツベルリンにかつて存在した複合建築物である。場所はブランデンブルク門付近で、現在の共和国広場(ドイツ語版)に面していた。1844年に開業し1951年に終焉を迎えたが、その歴史は非常に変化に富んだものであった。高級娯楽施設、喜劇劇場、繊維製品倉庫、歌劇場、そしてナチ時代には、1933年に国会議事堂火災で大きな被害を受けたため、代替の国会議事堂として使用された。
クロルの時代(1844年?1894年)1850年頃のクロルオーパー (鋼版画(ドイツ語版))

設立のきっかけは、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が1841年のブレスラウ訪問時に「Kroll´scher Wintergarten(「クロル室内庭園」)」を知ったことに遡る。こうして王宮所在地たるベルリンに上品な社交の場を設立することとなったのである。そこで企業家ヨーゼフ・クロル(Joseph Kroll)にベルリンの地所が無償で譲渡されたが、場所は練兵場の外れで埃が舞い、雨が降れば一面がぬかるむような、昔の市境を少し超えたところであった。しかし自らも設立資本を3万ターラー用立てる必要があり、クロルはこれを借入によって賄わざるをえなかった。しかも事業が失敗すれば、地所を返還し、新たに建てた建物も撤去する義務を負わされた。

建築に王室建築家ルートヴィヒ・ペルジウス(ドイツ語版)も携わっていたのも、プロジェクトが国王の関心事であったことを明白に示している。他にも著名な建築家カール・フェルディナント・ラングハウス(ドイツ語版)、エドゥアルト・クノーブラウフ(ドイツ語版)がいた。建築には10か月を要し、1844年2月15日に豪華な舞踏会をもって開業した施設は、城のようなスタイルで、中心となる建物は2階建て、両側には低層の翼部が続き、この他にもいくつかの建物が付属していた。5,000人を収容し、屋内庭園は2か所、中規模のサロンは14か所、大規模なホールが3か所、その内1つは特に贅を凝らした「Konigssaal(王の間)」で、音楽を奏でる奏者は60名にのぼった。技術の面で特筆すべきは、当時、導入されたばかりのガス灯で400灯が設置された。

開業初年の業績は非常に好調であった。ベルリンの道々には大きな宣伝ポスターが貼り出され、企画には手をかけた装いの仮面舞踏会イタリア中国の夕べ、くじ引き大会、クリスマス展示があった。ウィーンワルツ王ヨハン・シュトラウス2世も一時客演したが、直ぐにウィーンに戻った。彼の音楽が「ベルリンの人々の気質には、あまり受け入れられない」ことを悟ったためであった。努力を尽くしたものの、経営状態は次第に悪化していった。ヨーゼフ・クロルは肝臓病のため死去したが、生前、国王に邂逅し、ベルリンで事業を行ったことを後悔していた。ヨーゼフ・クロルとヤーコプ・エンゲル(Jakob Engel)の肖像。1869年の25周年記念広告1879年の配置図、左外側がクロルオーパー、右側の記載は新設の国会議事堂

事業を引き継いだのはクロルの年長の娘、アウグステ(Auguste)であった。事業拡大に乗り出し、猛獣ショーや大規模な商業見本市を開催した。劇場としての免許を取得し、「王の間」に舞台を設置して、当初は、喜劇や郷土劇といった庶民的な演目を上演したが、オペラ作品もいくつかレパートリーに加わった。例えばフリードリヒ・フォン・フロートウの『マルタ』やロッシーニの『セビリアの理髪師』で、資金が限られる中、冒険的な企画であった。アウグステ・クロルが特に目をかけたのが、幾度も大好評を博しながらも常に生活苦にあえいでいた作曲家、アルベルト・ロルツィングであった。オペラ作品『刀鍛冶(ドイツ語版)』『ウンディーネ(ドイツ語版)』『ロシア皇帝と船大工(ドイツ語版)』が上演されたが、厳しい経営業況の中では歩合や報酬を支払う余裕がなかった。1851年2月、豪華施設は炎に包まれ全焼した。照明の火が舞台装置に引火したのが原因であった。被災を免れたのは庭園と夏季劇場のみであった。火災保険から8万ターラーが支払われ、わずか1年で再建することができた。建築家はエドゥアルト・ティッツ(ドイツ語版)で、以前よりも立派なものとなった

1853年、アウグステ・クロルはヤーコプ・エンゲル(Jakob Engel)と結婚した。ハンガリー出身の音楽家で、楽長として雇われていた人物であった。そして音楽の演目は一層、大掛かりなものとなっていった。小規模なオペラの他に、ロッシーニの『オテロ』やリヒャルト・ヴァーグナーの作品である。しかし長年の高コストと低収益という状況に変わりはなかった。1855年4月1日、負債に耐え兼ね、ついに倒産の憂き目にあった。その後、数年は債権者が事業を継続したものの、状況が好転することはなかった。強制競売にかけられると、ヤーコプ・エンゲルは今なお負債を抱える企業を買い戻しを行ったのである。しかし10万9,000ターラーもの資金をどこから調達したかは明らかではない。エンゲルは多大な費用を要するオペラ作品を断念することとなった。しかしすぐにまた危機が訪れた。1869年、創業25周年に当たる年、プロイセンに営業の自由が導入されたのである。これまで必要だった営業許可が不要となり、数多くの私企業が設立され、競争はますます激しくなっていった。エンゲルは売却を試みたが、高額な抵当権が付いていたため、実を結ばなかった。大きな投資は不可能であった。数十年の時を過ぎ、地所全体の法的状況が不透明であったためである。1864年以降、練兵場は「Konigsplatz(国王広場)」となり、堂々たる都市広場へと装いを一変した。1870年代には、繰り返し議会で新国会議事堂の立地について議論が重ねられ、建設のため同施設を撤去するという案も出された。1876年に新国会議事堂は広場の向かい側に建設する旨、議決された。ヤーコプ・エンゲルもまた計画をいくつか実現することができた。例えば、それまでのガス灯に代わる電灯の導入であり、これはベルリンで初となるものであった。1888年、エンゲルが死去。息子はベルリンの観客の関心が薄れていく状況に抗しきれず、1894年、やむなく経営から手を引くこととなった。
歌劇場(1894年?1933年)1890頃の建物

1894年以降の経営者はベツォウ・ビール醸造所(ドイツ語版)の所有者、ユリウス・ベツォウ(Julius Botzow)で、コンサートはわずかに留め、純粋なレストランとして経営し、まずまずの成功を収めた。しかし翌年にはまず賃貸に出し、1896には「Konigliche Schauspiele(王立劇場)」に売却した。こうして私企業として、様々な役割を持った高級娯楽施設としての時代に終止符が打たれ、国立の歌劇場としてのクロルオーパーの歴史が始まった。建物は「Neues Konigliches Operntheater(新王立歌劇場)」と改称され、1898年まで歌劇場として改築が行われた。その後は、他の国立劇場の長期工事時に代替劇場として使用された。特筆すべきこととしては、著名歌手のエンリコ・カルーソー、「現代音楽」のイーゴリ・ストラヴィンスキーグスタフ・マーラーが観衆から大好評を博し、またヨハン・シュトラウス2世作曲のオペレッタこうもり』が98回も上演されたことである。


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