クロスロード作戦
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1946年7月1日
エイブル(Able) 1946年7月25日
ベーカー(Baker) ベーカー実験での最も有名な写真。水柱右下の黒いものは戦艦アーカンソーの船底に当たった衝撃波により煙突より噴出した煤である。[1] ベーカー実験で霧が晴れた後に現れた瀑布。この実験で200万トンの水が飛散した。

クロスロード作戦(クロスロードさくせん、Operation Crossroads)は、1946年夏にアメリカ合衆国ビキニ環礁で行った一連の核実験を言う。21キロトン級原子爆弾を用い、エイブル実験(Able)とベーカー実験(Baker)の2回の爆発実験が行われた[2]

水着ビキニの名称は、この作戦のうちのエイブル実験がその由来となっている(ビキニ (水着)#名称の由来参照)。

1946年7月1日のエイブル実験では、核爆弾を高度158m、7月25日のベーカー実験では水深27mの海中で爆発させている。3番目としてチャーリー実験(Charlie)が予定されていたが、ベーカー実験において生じた放射能が予想よりも激しかったため中止された。クロスロード作戦は1945年7月のトリニティ実験、8月の広島長崎に続く史上4番目と5番目の核爆発である。またマーシャル諸島で行われた、および事前に実施通告がなされた最初の核実験であった。なお本作戦の後には、1948年にサンドストーン作戦が実施されている。
作戦の詳細

一連の実験の目的は艦船、機器、各種物質に対する核兵器の威力を検証することであり、約70隻の艦艇が標的としてビキニ諸島に集められた。この艦隊はアメリカ海軍の老朽艦やドイツ海軍日本海軍から接収した艦、アメリカ海軍の余剰な巡洋艦駆逐艦潜水艦・補助艦などから構成されていた。接収艦としては日本海軍からの戦艦長門、ドイツ海軍からの重巡プリンツ・オイゲンなどが含まれている。核爆発現象を研究するための技術的な実験も行われ、生きている実験用動物(200匹の豚、60匹のモルモット、204匹のヤギ、5000匹のラット、200匹のマウスなど)が用意された。

この実験のために、第一統合任務部隊(Joint Task Force 1、旗艦:マウント・マッキンリー[3]。)が編成され、隊員の宿舎や実験施設として空母シャングリラなどの150隻以上の実験支援艦艇が利用され、人員は42,000人(このうち37,000以上は海軍の人員)からなっていた。この他の人員はエニウェトククェゼリンなどの近くの環礁に滞在し、ビキニ環礁はもっぱらリクリエーション用途や計測所として用いられた。

元の住人170人は無人島ロンゲリック環礁に移住させられた。

最初の実験の前に、全ての人員はビキニ環礁と標的艦隊から退避した。彼らは実験支援艦隊に乗り、ビキニ環礁から東に少なくとも18.5km以上離れた安全地帯で待機した。

エイブル実験ではB-29スーパーフォートレス「Dave's Dream」(旧称:第509混成部隊所属「ビッグ・スティンク」)から投下され、標的の艦船群の上空158mで炸裂した。一方ベイカー実験では艦船群の中心に停泊した中型揚陸艦LSM-60から吊り下げられ、水深27mの海中で爆発した。

なお、エイブル(Able)、ベイカー(Baker)、チャーリー(Charlie)は、米軍が使っていたen:Joint Army/Navy Phonetic Alphabet(通話表の一つ)によるA、B、Cを示している。
エイブル(Able)実験

投下された核爆弾の位置が標的とされていた戦艦ネバダからおよそ西に630m、北に122mずれてしまったことを除き、テストは順調に行われた。投下位置のずれについて、アメリカ政府はB-29の搭乗員に対して調査を実施している。その結果、これは爆弾自身が風に流されてしまったもので、搭乗員に何ら落ち度はないと結論づけられた。

核爆発によって生じた放射線は一時的なもので、沈没せずに残ったほぼ全ての艦は再び安全に乗艦することができ、来たるベーカーのテスト遂行に必要な残存艦艇の検査・再係留などは事前のスケジュール通りに進んだ。なお、この実験の結果として、後で挙げる5隻の艦艇が沈没している。
ベーカー(Baker)実験

爆発時にドーム状の霧が発生したが、これはウィルソン・クラウドと呼ばれ衝撃波に伴う膨張波により、空気中の水分が凝結したものである。
エイブルのテスト後に残存標艦船群に再び乗艦していた乗組員たちは、ベーカーテスト実施前に環礁東方にある実験支援艦隊へと退避した。この実験により8隻の艦艇(後述)が沈没し、残った艦艇もエイブルと比較して大きな損傷を受けた。ベーカーにより多くの残存艦艇が放射能を帯びた水とサンゴ礁由来の放射性降下物を浴び、12隻の錨を下ろして係留されていた艦とビキニ島に乗り上げていた上陸艇を除き激しく放射性物質に汚染されていたので、数週間経過するまでは乗艦しての各種作業ができなかった。 放射性物質で汚染されたため、海軍の消防船により洗浄される戦艦ニューヨーク
チャーリー(Charlie)実験

チャーリー実験では水中深くでの爆発が予定されていた。対潜爆雷として用いた際の核兵器の効力を検証する意図があったが、ベーカーのテストによる放射能汚染問題が深刻であったため中止された。これと同内容の実験がのちにウィグワム作戦(Operation Wigwam)として1955年5月14日カリフォルニア州サンディエゴ沖で実施されている。
放射能による影響 放射能で汚染されたドイツの巡洋艦プリンツ・オイゲンを洗浄する水兵たち。

ベーカーのテストの後、汚染の激しい大部分の艦艇に対して検査を実施できなかったことはテストの成否を左右するため、標的艦隊の除染作業が8月1日から実施された。この作業は放射線検知器を装備した標的艦隊の乗組員を使い、艦船の外面を洗浄させるものであった。初めは標的艦に乗艦できる時間が数分しかとれなかったので、除染作業はなかなかはかどらなかった。時が経過するにつれ、実験支援艦隊自身が軽度の放射能を帯びた海水によって汚染されるようになってしまった。

そこで、ビキニ環礁での作業を中止して汚染されていない水のもとで作業ができるクェゼリン環礁へ残存標的艦を移動させるという決断が8月10日までになされ、この移動は9月までに終了した。クェゼリンでの主な任務は標的艦に搭載されていた弾薬を抜き取ることであった。このクェゼリンでの作業は1946年秋まで続き、職員は1947年に入っても乗艦しての仕事を続けていた。

12隻の主要艦艇と2隻の潜水艦が放射能の検査のためアメリカとハワイに曳航された。12隻の標的艦の汚染は大変軽微であったので、再び乗組員が乗艦し、アメリカまで航行することができた。残りの標的艦は1946年から1948年の間にビキニ環礁、クェゼリン環礁、ハワイ諸島近海のいずれかで撃沈処分とされた。


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