クロアチア防衛軍
Hrvatske obrambene snage
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に参加
クロアチア防衛軍の紋章
活動期間1991年 - 1993年
指導者ブラジュ・クラリェヴィッチ
本部 ザグレブ
リュブシュキ
活動地域 クロアチア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
後継クロアチア共和国軍、クロアチア防衛評議会
関連勢力 クロアチア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
敵対勢力 ユーゴスラビア
スルプスカ共和国
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クロアチア防衛軍(クロアチア語: Hrvatske obrambene snage; HOS)は、クロアチア権利党(HSP)の武装勢力[1]で、1991年から1992年まで存続した。1992年に指導者のブラジュ・クラリェヴィッチが殺害されると、HOSは解体され、クロアチアではクロアチア陸軍に、ヘルツェグ=ボスナではクロアチア防衛評議会に吸収された[2]。クロアチア防衛軍はクロアチア人およびボシュニャク人によって構成されていた。中央ボスニアに最後まで残ったHOSは1993年に解体された。クロアチア防衛軍は、頻繁にそのクロアチア語略称である「HOS」を用いた。「HOS」は、第二次世界大戦のナチスの傀儡国家であるクロアチア独立国の軍備であるクロアチア武装軍(Hrvatske oru?ane snage; HOS)と頭文字が一致する。第二次世界大戦のクロアチア武装軍は、クロアチア独立国を支配したファシスト組織・ウスタシャの率いたウスタシャ民兵の流れを汲む戦力であった。 ブラジュ・クラリェヴィッチは、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のごく初期の段階の軍事的指導者の一人であり、HOSの司令官であった[2]。紛争が始まると、クラリェヴィッチはHOSをボスニア・ヘルツェゴビナにおけるクロアチア人の兵力の中心に据えた。クロアチア防衛評議会などのほかのクロアチア人勢力と異なり、HOSはボスニア・ヘルツェゴビナを分割して民族浄化によってクロアチア人だけの領域を作ることに反対し、ボスニア・ヘルツェゴビナ全体をクロアチアと合同させることを目指していた[3][4]。 HOSの旗は黒地で、中央に紋章が入っている。紋章は三つ編みの円に囲まれ、赤白の市松模様の盾が、白い四角形と4つの編み込み模様の上に重なっている。その上には「HOS」の文字、下には「HSP」の文字と「ZA DOM SPREMNI」(ザ・ドム・スプレムニ)の文字が書かれている。ザ・ドム・スプレムニは、第二次世界大戦時のクロアチア独立国の敬礼として使われた[5]
ブラジュ・クラリェヴィッチ
旗
参考文献^ “ ⇒Bosnia and Herzegovina - Croatian Party of Rights” (HTML). ⇒http://www.crwflags.com+(2007年).+2007年9月24日閲覧。
^ a b “ ⇒ITCY” (HTML). ⇒UN (1 Wednesday, 4 September 2002). 2007年9月24日閲覧。
^ “ ⇒IT-98-34-T, the Prosecutor versus Naletilic and Martinovic” (HTML). ICTY (2002年7月17日). 2007年9月25日閲覧。 “Q. あなたがモスタルに住んでいる間、その地域で、あなたは…あなたはHOSがクロアチア人とボシュニャク人がともに協力するより他民族的なボスニア・ヘルツェゴビナを目指したと理解したのですか? 最終的にクラリェヴィッチ氏が殺害されるに至ったHDZの抗争によるものではなくですか?”
^ ブラジュ・クラリェヴィッチ、ボスニア・ヘルツェゴビナ分割に反対を宣言
^ “ ⇒HOS, Croatian Defence Forces” (HTML). crwflags (2008年). 2008年3月11日閲覧。
歴
ユーゴスラビア紛争
背景
(ユーゴスラビアの崩壊)
ユーゴスラビア連邦
ヨシップ・ブロズ・ティトー - パルチザン - ユーゴスラビア共産主義者同盟 - ティトー主義 - 兄弟愛と統一 - クロアチアの春
参加勢力
ユーゴスラビア連邦/ユーゴスラビア人民軍
スロベニア/スロベニア領土防衛軍
関連事項
ブリオニ合意
1991年-1995年
クロアチア紛争
(クロアチアの独立)
参加勢力
ユーゴスラビア連邦/ユーゴスラビア人民軍
クロアチア/クロアチア共和国軍
クライナ・セルビア人共和国
クロアチア防衛軍 - 白い鷹 - セルビア義勇親衛隊 - サソリ
戦闘と事件
プリトヴィツェ湖群事件
ボロヴォ・セロの虐殺
1991年5月ダルマチア反セルビア暴動
ダルマチアの戦い
ヴコヴァルの戦い
ヴコヴァルの虐殺