クレルヴォ交響曲
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽シグルド・ヴェッテンホヴィ=アスパによる『クレルヴォ』のポスター(1892年)

『クレルヴォ』または『クッレルヴォ』(Kullervo)作品7は、ジャン・シベリウスの初期の合唱付き管弦楽曲。楽章の配置や内部構成から見ると交響曲と呼びうる内容を持っており、『クレルヴォ交響曲』("Kullervo" -sinfonia)とする俗称ないしは通称が一般化している(日本では、促音を表記せず「クレルヴォ」とすることが一般的である。ただし下記においては、曲名以外の部分では、クッレルヴォと表記する)が、シベリウス自身は譜面の題扉に「交響曲」の文字を記入しておらず、「独唱者と合唱管弦楽のための交響詩」との副題を添えていた。このような事情により、交響曲全集に収録されない場合がある。
作曲の経緯と受容

シベリウスは留学中の1891年ベルリンロベルト・カヤヌスの『アイノ交響曲』を聴いて感銘を受け、自らも真に愛国的な題材による大規模な管弦楽曲を作曲をしようと思い立つ。同年の春から留学先のウィーンで、叙事詩カレワラ』に基づく管弦楽曲の作曲に取りかかり、結局これが『クレルヴォ交響曲』として結実することになった(それまでに作曲済みの部分は、ドイツ的であるとの理由から焼き捨ててしまったという)。作曲の過程において、ウィーン音楽院における指導教授のロベルト・フックスカール・ゴルトマルクに講評を求めて酷評される一方で(ただしシベリウスは気落ちするどころか意地になって作曲を続けた)、ブルックナーの《交響曲第3番》の公演に立会い、刺戟を受けている。またウィーンでは、ベートーヴェンの《交響曲第9番》の公演にも接したものの、作曲者当人の弁によると、こちらからは何も得るものがなかったという。

当初は3ないし4楽章程度にする予定であったが、結局5楽章に落ち着いた。また、当初は50もの題材を考え出したものの、題材選びは入念にとのゴルトマルクの助言を容れて満足できるものに絞り込み、結局 『カレワラ』第35章から第36章の「クッレルヴォ」の物語にした。

1892年4月28日に作曲者自身の指揮で行ったヘルシンキ初演は、評論家筋からはおおむね好評だったものの、作品を撤収してしまう。これは、カール・フローディンのようなスウェーデン系フィンランド人の間では激賞され、オスカル・メリカントのようにフィン語を母語とする人からは判断を保留されたことも影響しているようである(一方で、フローディンは「次回作はレンミンカイネンを題材とする交響詩の創作を」シベリウスに奨めており、ゆくゆくはシベリウスがその実現に向けて動き出したということも、記憶に留めておくべきであろう)。

初期のシベリウスはブルックナーのような改訂癖があり、本作もいずれは改訂するつもりであったらしい。このため初演後は、断片的な形で3回(そのうち1回はピアノ伴奏版で)演奏されたのを数えるだけで、シベリウス没後の1958年に娘婿のユッシ・ヤラスが蘇演を指揮するまで、全曲演奏は行われなかった。最初の全曲録音は、1970年パーヴォ・ベルグルンドによって行われた。ベルグルンドは1985年にデジタル方式で再録音を行っている。
物語

クッレルヴォの物語は『カレワラ』第31章から第36章に当たる。その概略は次の通りである。

ウンタモは兄弟のカレルヴォとのいさかいの末にカレルヴォとその一族を、身重の女一人を残して皆殺しにし、女を連れ帰る。女はウンタモの許でカレルヴォの息子クッレルヴォを出産する。クッレルヴォは揺りかごの中で早くも父を殺したウンタモへの復讐を口にし、恐れたウンタモは様々な手段でクッレルヴォを殺そうとするが、クッレルヴォは不死身であった。成長したクッレルヴォは鍛冶屋イルマリネンに奴隷として売り渡される。(第31章)

イルマリネンの妻はクッレルヴォを牛追いにやるが、悪戯で石を入れたパンをクッレルヴォに持たせる。クッレルヴォはパンに仕込まれた石で父の形見のナイフを折ってしまう。怒ったクッレルヴォが呼び寄せた野獣によって、イルマリネンの妻は引き裂かれて死ぬ。(第32-33章)

イルマリネンの許を逃げ出したクッレルヴォは、森の老婆から実は家族がまだ生きていると知らされる。クッレルヴォは母と再会し、息子は既に死んだと思っていたこと、クッレルヴォの妹が行方不明になったことを告げる。


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