クレマン・アニェス・アデール(Clement Agnes Ader、1841年4月2日 - 1925年3月5日)はフランスの発明家。オート=ガロンヌ県ミュレ(Muret)生まれ。19世紀末に蒸気機関を積んだ飛行機「エオール」と「アヴィオン」を製作。これらはエンジンは優秀であったが、わずかな浮上にしか成功しなかった。 アデールは電気工学と機械工学においていくつもの新領域を刷新した。彼は元来は電気工学を専門としていた人物で、1878年には電話(グレアム・ベルによって作られたもの)を改良している。彼はベルの電話を洗練し、1880年にはパリで最初の電話網を作り上げた。1881年、「テアトロフォーン」("Theatrophone
発明家として
航空機の開発
エオール特許出願書の図版におけるエオール号
電気工学分野での活動の後、アデールは重航空機による飛行という問題に転向した。そして死ぬまで、多くの時間と金銭をこの問題に費やした。鳥の飛行を研究したルイ・ピエール・ムイヤール(Louis Pierre Mouillard, 1834 - 1837)の知見を基に、アデールは1886年に彼としては最初の飛行機械、エオール号(Eole)を製作した。エオールはコウモリのような格好をした単葉機で、4気筒・20馬力の蒸気機関で四枚羽のプロペラを駆動した。機関はアデール自身の発明品で、出力1馬力あたりに対する重量は7ポンド(1ワットあたり4グラム)という極めて軽量なものであった。主翼は翼幅14ヤードで、変形するシステムを備えていた。総重量は650ポンド(300kg)であった。1890年10月9日、アデールはエオールで飛行を試み、約20cmの高度で約50メートルの距離を飛んだ[2]。これはライト兄弟のライト・フライヤー号に先立つこと13年、史上初の、補助なしの動力離陸であった(先行の実験家モジャイスキー、デュ・タンプルは斜面やジャンプ台を利用)が、偶発的なもので、操縦も不能であった[2]。
なお Eole(エオール)は風神アイオロスのフランス語形。 その後アデールはアヴィオンII
アヴィオン
アデールの研究成果は陸軍省長官シャルル・ド・フレシネの興味を惹いた。フランス陸軍省の支援を受け、アデールはアヴィオンIII号を開発した。それはリンネルと木で出来た巨大なコウモリのような機体で、翼幅は16ヤード、四枚羽の牽引式プロペラ二つを、30馬力の蒸気機関二つで駆動した。地上滑走テストを充分に行なった後、アデールはサトリで飛行を試みた(1897年10月14日)。目撃者の中には、アヴィオンが前進し、空に向けて飛び立ち、そして(公式な就役の前には)300ヤード以上を飛行したと断言する者もいる一方、アヴィオンIII号は離陸すらしないうちに壊れたと断言する者もいる。いずれにせよ、軍はこの試験に失望して資金援助を打ち切った(とはいえ結果を機密のままに保持はした)。ライト兄弟が飛行を成し遂げた後、フランス政府はアデールの飛行に関する情報を、成功していたものとして公開した。
なお「飛行機」を意味するフランス語 avion (アヴィオン)は、彼の試作機に由来する。 "L'Aviation Militaire"(軍事航空)はクレマン・アデールが1909年にパリの出版社Berger-Levraultから刊行した書籍である。この本はアデールが19世紀の末に案出し1907年までかけて改良を重ねた考えに基づいている。非常な人気を得た本で、刊行から第一次世界大戦までの5年の間に十の版を重ねた。 航空母艦のコンセプトを示し、注目を集めた。アメリカが艦上から飛行機を離陸させることに成功した(1910年)のは、パリの大使館付き海軍武官が本国にL'Aviation Militaireの報告を送った一年後のことであった。[3]
"L'Aviation Militaire"