クレフテス
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クレフテス[# 1]

クレフテス(:κλ?φτη?(複数形)、山岳党とも)とはギリシャオスマン帝国領であった時代、田園地方に存在した山賊、もしくは反オスマン帝国活動を行なった人々のこと[2]。彼らは15世紀にギリシャがオスマン帝国に征服された際、オスマン帝国の抑圧を避けるため山岳地帯へ逃亡した[3][4]ギリシャ人らの子孫であり[4]19世紀後半まで山賊として活発な活動を行なった[4]。彼らは山岳地帯で自由に生活しており、オスマン帝国の支配に対して戦いを続けた[5]。トルコ・ギリシャ関係の発展に伴い、意味自体は「泥棒」を意味しているが、クレフテスはオスマン帝国支配時代に屈しなかったギリシャ人として、現在のギリシャ人らにとって特別な意味を与えられている[6]

オスマン帝国支配下でのクレフテスは、通常、オスマン帝国当局からの復讐、税の納付、債務の返済、軍事的報復を避けていた人々であった。彼らは旅行者を襲撃したり、村落を孤立化させたりしながら険しい山岳地帯や僻地に居住していた。クレフテスらの大部分は何らかの形でギリシャ独立戦争に参加している。

また、クレプトマニア(盗癖、窃盗症)クレプトクラシー(泥棒政治)はクレフテスの語源である「κλ?πτειν (kleptein)」と由来を同じくする。
起源

1453年コンスタンティノープル陥落1460年モレアス専制公領ミストラス陥落以降、ギリシャの大部分がオスマン帝国の手中となった。オスマン帝国の支配下とならなかったのはギリシャ人らが棲息していたため、オスマン帝国が近づき難い山岳地帯とヴェネツィア支配下の沿岸部と島嶼部のみであった。この状況は少なくとも1821年まで続き(ただし、マケドニアイピロスなど若干の地域が20世紀までトルコ領として残った。)、ギリシャではこの期間を「トルコクラティア(Τουρκοκρατ?α)」と呼ぶ。

オスマン帝国が征服した地域はパシャリクと呼ばれる行政区に分割され、現在のギリシャの地域はモレア (en) とルメリアに所属し、さらに封建的領土であるチフトリキ((:ciftlik、 :τσιφλ?κι)に分割された。生き残ったギリシャ兵らは東ローマ軍、地方の民兵傭兵などの所属にかかわらず、オスマン帝国軍のイェニチェリに加わるか、オスマン帝国の地方有力者の私兵となるか、自活するかのいずれかを選んだ[# 2]。ギリシャ人としてのアイデンティティ、正教への信仰、そして自立を維持したいと考えていたギリシャ人の多くは自由に生活することを選んだ[8]。これら山賊集団はすぐに、貧困に悩まされていた農民、もしくは冒険的行動を好んだ社会的追放者や逃亡中の犯罪者などで膨れ上がることになった。

なお、この現象はオスマン帝国支配下のバルカン半島では類似した行動が行われており、セルビアでは「ハイドゥク」、ブルガリアではハイドゥティと呼ばれ、クレフテスとハイドゥクは互いに協力することもあった[9][6]

オスマン帝国はこのクレフテスらに対応するためにギリシャ人らを武装化、彼らはアルマトリ (en) (マルマトロスとも、憲兵、もしくは山岳警備兵の意味)と呼ばれたが時代を経るごとに彼らとクレフテスと大差無いようになっていった[10]。そのため、クレフテスからアルマトリへ、アルマトリからクレフテスへの移行は日常茶飯事であり、戦闘、狩猟、饗宴などの生活様式はホメロスの英雄叙事詩を彷彿させる状態であり、オスマン帝国との戦いを続ける中で徐々にギリシャ人としての民族意識を育んでいった[8][11]

このクレフテスとアルマトリの違いは合法か非合法かのちがいでしかなかったが、彼らが活動していたことでギリシャ人らにゲリラ戦の伝統が養われることになった[12]。しかし、彼らはトルコ人領主だけではなく、ギリシャ人領主らも略奪の対象としていたが、民衆の間で理想化され、トルコ人への民族的抵抗を彷彿させるシンボルとなっていった[13]

また、1787年に勃発した露土戦争 (1787年)においてクレフテスやアルマトリはオスマン帝国に対して蜂起を行っている[14]


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