クレティアン・ド・トロワ
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年1月)
クレティアン・ド・トロワ

クレティアン・ド・トロワ(クレチヤン・ド・トロワ、Chretien de Troyes)は12世紀後半のフランス詩人で、騎士道物語ロマンス)をうたうトルヴェール吟遊詩人)として評判を博した。

彼の生涯に関してはほとんど知られていないが、フランス北部シャンパーニュ地方の首都トロワ(Troyes)の出身と思われる。少なくともシャンパーニュ地方の生まれであることは確実とされる[1][2]。彼は1160年から1181年までの間、シャンパーニュ伯アンリ1世の夫人でフランス王ルイ7世アリエノール・ダキテーヌの娘、マリー・ド・シャンパーニュのパトロネジを受けて宮廷に仕えた。

クレティアンのアーサー王をうたった物語詩は、中世ヨーロッパ文学の最良の成果といえる。また、彼の詩がアーサー王物語聖杯伝説の変容と普及に果たした役割は非常に大きい。
作品

8音節の対句で韻を踏んだ(平韻8音綴)、5つの主要な物語詩が良く知られている。

エレックとエニード(Erec and Enide、英語版) 1170年ごろ[2][3]

クリジェス(Cliges) 1176年ごろ[2][3]

イヴァンまたは獅子の騎士(Yvain, le Chevalier au Lion) 1177年から1181年(または1179年)の間に成立[2][3]

ランスロまたは荷車の騎士(Lancelot, le Chevalier de la Charrette) 1177年から1181年(または1179年)の間に、上記の作品と並行して成立[2][3]

ペルスヴァルまたは聖杯の物語(Perceval, le Conte du Graal) 1181年から1190年に書かれ、未完のまま終わる

最後の騎士道物語、『聖杯の騎士ペルスヴァル』は、彼が晩年に仕えていたフランドル伯フィリップのために作られた[1][2]。彼は9,000行を書き上げたところで終わり、様々な才能の4人の後継者達が続きとなる計54,000行(「4つの続編」として知られる)を書き加えた。同様に、『ランスロ』の最後の1,000行はクレティアンの書記であったゴドフロワ・ド・レイニ(英語版)が書き、クレティアンが編集している。『ペルスヴァル』の場合はある続編執筆者が「詩人は死のために物語を完成させることができなかった」と書いているが、『ランスロ』の場合はクレティアンが最後を書かなかった理由は不明である。結婚生活の愛を描くことにかけては中世文学最高の作家であったクレティアンには、『ランスロ』におけるグィネヴィアとランスロの姦通についての題材をどうしても書くことができなかったという憶測もある。

その他、2編の小さな詩が彼の作に帰せられている。信心深い内容の物語、『ギヨーム・ダングレテール(Guillaume d'Angleterre、イングランドのウィリアム)』(フランス語版)は彼の作品とされていたが疑問も多い。もう一つはオウィディウスの『変身物語』に基づく彼の4つの有名な詩のうち唯一現存する『ピロメナ(Philomena)』である。『クリジェ』の序文ではクレティアンはオウィディウスの翻訳について特筆し、さらにコーンウォールのマルク王やイゾルデについての彼の詩についても述べている。イゾルデとはおそらくトリスタンとイゾルデの伝説のことであろうが、トリスタンについて触れていないことは興味深い。
クレティアンの使った資料

彼の書いた物語のもととなる一次資料や内容を特定できる資料について、多くの研究者が興味を示してきたが、彼の情報源は今も分からない。彼は自分の使った一次資料について非常に漠然とした方法で述べており、物語の中にケルト系の伝承の影響が簡単に見て取れるにもかかわらず、彼がそういった資料を所持していたという証拠はない。ジェフリー・オブ・モンマスワースの書いた詩や物語には登場人物の幾人かが出てくるが、両者ともクレティアンの物語で重要な役割を果たすエレック((英語版))、ランスロ、グルネマンツ((英語版)))らについては触れていない。今では失われたラテン語フランス語による物語の原本について推測したり、ケルトに源を発するヨーロッパ大陸の伝承について推測せざるを得ない状態である。同様の問題は1150年ごろに活躍しトリスタン伝説をうたったノルマン人の詩人、ベルールの研究者も直面している。クレティアンの5つの物語は、一人の作家の作品でありながらフランス騎士道の理想についてもっとも完璧な表現を実現した。
影響

クレティアンの書いた物語は非常な人気を博したため、その写本や他言語への翻訳版が非常に多く残っている。中高ドイツ語文学の最高の例のうちの三つ、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』、ハルトマン・フォン・アウエの『イーヴァイン』『エーレク』はクレティアンのペルスヴァルイヴァンエレックを基にしている。またマビノギオンに関わる三つのウェールズのロマンス(『エヴラウグの息子、ペレディル(Peredur son of Efrawg)』、『ゲライントとイーニッド(Geraint and Enid)』、および『泉の婦人(Owain, or the Lady of the Fountain)』)も同じ三人組から由来していると思われる。しかし、特に『ペレディル』の場合、ウェールズの叙事詩とその元となる詩との関係はおそらく直接ではなく、満足に説明されたことはない。

クレティアンはまた、今日に至るまでおなじみになっている主題、すなわち『ペルスヴァル』での聖杯、および『ランスロ』でのグィネヴィアランスロットの禁断の恋について言及した、最初の作家として特筆すべき存在である。

12世紀のフランスの物語詩人には、自分の作品を引き出すための三つのカテゴリの題材、主題があった。一つは「フランスの話材」、または祖国についての伝説で、特にロンスヴォーの戦いにおけるローランの最後の戦い(ローランの歌参照)が、シャルルマーニュの宮廷をめぐる他の伝説同様人気が高かった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:25 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef