クレオン(クレオーン、古代ギリシア語: Κλ?ων、ラテン文字転記:Cleon、?-紀元前422年)は紀元前5世紀後半のアテナイの政治家、デマゴーグである。 クレオンは裕福な皮鞣業者クレアイネトスなる人物の子である。クレオンをはじめとするデマゴーグは無教養な成り上がり者として描かれることが多いが、彼らは旧来の大土地所有者ではないにせよ、手工業を営む裕福な名望家層であった[1]。トゥキュディデスによれば、クレオンは「他の問題についても市民の中で最も乱暴で、その当時では最も説得力のある人物」であった[2]。 クレオンは紀元前440年頃に名門の家柄のディカイオゲネスの娘と結婚し、政界進出の糸口を掴もうとしたようである。しかし、ペリクレスの存命中に新参者のクレオンに活躍の機会は与えられず、ストラテゴス職はベテラン将軍たちによって独占されていたため、当初のクレオンには軍事的威信もなかった。そこで彼は弁論術に目をつけ、これで政界進出を目論んだ[3]。このクレオンの武器はミュティレネ裁判において存分に発揮された。紀元前428年のミュティレネによるアテナイに対する反乱が翌年に鎮圧されると(ミュティレネの反乱)、彼はミュティレネの男子全員を処刑し、女子供を奴隷にすることを民会で提案した。一日目の裁判では彼の提案が可決され、現地の将軍の許にその命令を伝える快速船が送られた。しかし、人々はこのあまりにも過酷な判決を後悔し、裁判をやり直した。その結果、ディオドトスなる人物の提議で首謀者のみを処罰することが決まり、命令を修正する快速船が送られ、間一髪で間に合った[4][5]。その後、反乱の首謀者1000人がアテナイに送られると、クレオンの提案で彼らは処刑された[6]。 紀元前425年、メッセニアのピュロスでスパルタとアテナイの戦いが行われていた時、スパルタから講和を申し出る使節がやってきた。この時クレオンは民衆に対して戦争続行を扇動し、ピュロスの近くのスファクテリア島
生まれと初期の政治活動
スファクテリアの戦い
その後、ピュロスから冬になれば包囲は困難になるという使者がやってきたが、戦況は有利だと常々主張していたクレオンは彼らは真実を伝えていないと述べ立てた。このため、使者たちは別の視察者を選出するよう求め、クレオン自身とテアゲネスが選ばれた。ここで嘘をつくか使節の言うことが正しいと認めるかというのっぴきならない状況に追い込まれたクレオンは使者を送るなど悠長なことをすべきではなく、好機を逸さずに軍を送るべきであり、自分ならばスファクテリア島のスパルタ兵を捕らえることができると主張した。かねてよりクレオンと対立関係にあり、この時遠まわしにあてこすられたニキアスはクレオンが失態を演じるのを期待し、クレオンに自身の将軍としての指揮権を譲渡した。最初クレオンは軍を率いるのを躊躇したが、追い詰められると自分はスパルタ軍を恐れてはおらず、20日以内にスファクテリア島のスパルタ兵を捕らえるか殺すかしてみせると宣言し、名将デモステネスを同僚の将軍に選び、出航した[8][9]。ところが、この時クレオンは主戦力であったアテナイの重装歩兵を連れて行かず、レムノス島、インブロス島の兵、アイノスの軽装歩兵、その他の地方からの弓兵400人を連れて行っている[10]。トゥキュディデスの記録した戦いの場面において指揮官の名前が出ていないのでクレオンがどの程度戦いに関わったのかは分かっていないが、スファクテリア島のスパルタ兵との戦いにおいてクレオンが連れて行った軽装歩兵と弓兵は左右から敵に矢玉を発射し、重装歩兵からなる敵が近づくと身軽さを生かして後退し、敵が引くと再び攻撃をするというヒット・アンド・アウェイ戦法で消耗させ、ついには絶対降伏しないと言われていたスパルタ兵120人を含む292人を降伏させることに成功した[11][12]。つまり、クレオンの部隊の選択は正しかったわけであり、彼は敵の重装歩兵部隊を破るのに何が必要であったのかを把握していたのである。帰国したクレオンは一躍時の人となり、スファクテリア島での勝利で名声と勢力を上昇させた[13]。