クレオメネス戦争
[Wikipedia|▼Menu]

クレオメネス戦争

紀元前229/228年?紀元前222年
場所ペロポネソス半島
結果アカイア同盟とマケドニアの勝利
領土の
変化アクロコリントスオルコメノスのマケドニアへの帰属

衝突した勢力
アカイア同盟
アンティゴノス朝マケドニア
その他同盟国スパルタ
指揮官
アラトス
アンティゴノス3世クレオメネス3世
クレオメネス戦争時のギリシャ南部概略図。.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  スパルタ  アカイア同盟  アンティゴノス朝(マケドニア王国)  アイトリア同盟

クレオメネス戦争(: Cleomenean War、紀元前229/228年?紀元前222年)は、スパルタと、アカイア同盟およびアンティゴノス朝マケドニアの間で戦われた戦争である。
概要

スパルタ王クレオメネス3世はスパルタの国政を改革し、スパルタを再びペロポネソス半島の覇者たらめんとし、ペロポネソス半島の北半分を支配していたアカイア同盟に挑んだ。クレオメネス率いるスパルタは快進撃を続け、一時はアカイア同盟の盟主の座を掴むかに見えた。しかし、アカイア同盟の指導者のアラトスはマケドニア王アンティゴノス3世を呼び寄せ、その力によってクレオメネスに対抗しようとした。アカイア人とマケドニアによるアルゴス奪回を転換点として戦況はアカイア・マケドニアの優勢に転じ、紀元前222年のセラシアの戦いで彼らは決定的な勝利を得て、クレオメネスをエジプトへの亡命に追い込み、スパルタを占領した。
背景

紀元前235年、クレオメネス3世は父レオニダス2世の後を継ぎスパルタ王に即位した。クレオメネスは失敗に終わったアギス4世の改革路線を継承し、古のスパルタの制度や生活様式の復活のための改革を目論んだ。というのも、彼の見るところでは市民はだらけ切っており、個人的な快楽や欲望に耽り、公的な事柄に熱意を示さず、また王は名ばかりで実権はエフォロスの許にあった[1]。クレオメネスは側近のクセナレスを試したが、彼は味方にならないだろうと考え、クセナレスですらそうだから味方はいそうにはないと判断し、一人で改革を計画した。そして彼は平時よりも戦時の方が改革に向いていると考えアカイア同盟との戦いを決意した。
開戦

当時、アカイア同盟のアラトスはペロポネソスを一つの統一体にしようとしており、それに組せぬアルカディアを略奪するなど狼藉を働いていた。こうしてアラトスはクレオメネスの出方を試し、歳も経験も足りぬ若造と彼を見くびってかかった。

それに対してエフォロスたちはラコニアとメガロポリスの国境地帯であったベルビナにクレオメネスを派遣した。彼は同地を占領し、砦をめぐらせた[2]ポリュビオスによれば、紀元前229年にクレオメネスはアカイアを攻撃し、テゲアマンティネア、カヒュアイ、アルカディアのオルコメノスといった諸市を占領し、アイトリア同盟と同盟を結んだ[3]。一方アラトスは夜間にテゲアとオルコメノスを占領しようと向ったが、彼に内通していた人々はクレオメネスのベルビナ占領を聞いて何もしなかったため、アラトスは手ぶらで帰った。これらの事件によって、アカイア同盟はスパルタとの戦争を決議した。

その後クレオメネスはアルカディア内部に進出したが、アカイア同盟との戦争を恐れたエフォロスは彼に撤退を命じ、彼はそれに従った。しかしその直後にアラトスがオルコメノスの北のカヒュアイを占領したため、再びクレオメネスを出撃させた。クレオメネスはアルカディア中央部のメテュドリオンを占領し、アルゴリス地方を荒らしまわった。それに対し、紀元前228年5月にアカイア人はストラテゴスとしてアリストマコスを任じ、彼を歩兵20000と騎兵1000からなる軍と共に差し向けた。それに対してスパルタ軍は5000人を切る数であった。両軍はパランティオン近郊で遭遇した。戦う意思を持っていたクレオメネスをアリスマコスに同行していたアラトスは恐れ、アリストマコスに注意を呼びかけて自らは戦列から身を引いた。このことによってアラトスは味方からは非難され、敵からは嘲弄された。
リュカイオン山の戦い

紀元前227年5月、アラトスはストラテゴスに選出されるとエリスを攻撃した。クレオメネスはエリスの援助の要請に応じて出撃した。彼はリュカイオン山近くで作戦を終えて引き上げているアカイア軍に奇襲を仕掛け、多数を殺傷した。この戦いでアラトスも戦死したという誤報が流れたが、アラトスはそれを逆手に取り、残余の兵と共にマンティネイアへ行き、敵襲を全く予想していなかったマンティネアを易々と占領した。

マンティネア陥落で気落ちしたスパルタ人を元気付けるためにクレオメネスは紀元前228年にエウダミダス3世が死んでいた(ただしパウサニアスはクレオメネスによる毒殺を主張)のでエウリュポン家のアルキダモス5世(兄アギス4世の処刑時にメッセニアへ亡命)を呼び戻して共同統治者として王位につけた。ところが、プルタルコスによるとアギスを殺した者たちは報復を恐れてアルキダモスを暗殺した[4]。それに対し、ポリュビオスはクレオメネスによって殺されたとしている[5]
ラドケイアの戦いとクレオメネスの改革

それに怯まずクレオメネスはエフォロスに賄賂を渡して今一度の遠征の評決を下させた。そして彼はメガロポリス領に進撃し、レウクトラ(スパルタが覇権を失ったレウクトラの戦いのあったボイオティアのレウクトラではない)を占領した。そして、すぐにアラトス率いるアカイアの援軍がやって来たため、両軍は激突した。当初アカイア軍はスパルタ軍を押し、追撃を行った。しかし、アラトスは深い峡谷のために追撃をやめたが、メガロポリスの将軍リュディアダスはこれを不服として自ら騎兵部隊を率いて敵に追い討ちをかけた。しかし彼は木々や掘割、塁壁などの障害物によって思うよう身動きが取れないところに入ってしまったため、それを見たクレオメネスはタラスクレタ傭兵部隊を放って逆襲を仕掛け、リュディアダスを戦死させた。これにより勇気を得たスパルタ軍は反撃に転じ、アカイア軍の全軍を壊走させるに至った。その後クレオメネスはリュディアダスの亡骸を丁重に扱い、メガロポリスの城門の前まで送り届けた。

この勝利で勢いを得たクレオメネスは自らの計画を実行に移そうとした。彼はエフォロス制の廃止、財産の共有、そしてギリシアの覇権国としての再浮上という計画を話し、それに賛同したメギストヌウス(再婚した母の夫)他数名を仲間に引き入れた。そしてクレオメネスはその前段階として彼の計画に反対しそうな者たちを引き連れてアルカディアへ遠征し、彼らをわざと疲れさせて彼らの方から同地への残留を希望するよう仕向け、邪魔者を排除した。帰国するや否やクレオメネスは志を同じくする者たちを差し向け、一人を除いて会食中の5人のエフォロスを皆殺しにした。ただし、エフォロスの一人アギュライオスは命からがら神殿に逃げ込んだため、クレオメネスは彼を見逃してやった。その直後、クレオメネスは本格的な改革を始めた。彼は全ての土地の共有化、債務の帳消しを行った。さらに、外国人やペリオイコイのスパルタ市民への門戸を開いて市民即ち兵数を増やし、4000人のペリオイコイを重装歩兵として訓練し、マケドニアのサリッサを取り入れるなどした。そしてクレオメネスは自ら範となりつつ、リュクルゴスの立法に遡るスパルタのかつての実質剛健を旨とする伝統を蘇らせた。また、弟のエウクレイダスを共同統治者として王位につけ、単独支配のイメージを和らげた。
アカイアのアンティゴノスへの接近

紀元前226年、マンティネアはクレオメネスにアカイアの守備隊を追い払うよう要請し、クレオメネスはこれに応じた。彼は夜陰に乗じてアカイアの守備隊を追い払い、さらにテゲアに向い、それからアルカディアを通り、敵を求めてアカイアの領地ファライへと向かった。アカイア軍はそれに応じて出撃したが、デュメでクレオメネスに大敗を喫した。その後彼はランゴンのアカイアの守備隊を追い出し、エリスに返還した。この戦いの後、アラトスはストラテゴスの地位に就くのを拒否した。

そしてクレオメネスは捕虜や占領地を返す代わりにアカイア同盟の主導権を渡す条件で講和を持ちかけ、アカイア人もそれに応じた。彼らはアルゴスの南のレルナに会議のためにクレオメネスを招いたが、クレオメネスは強行軍をして水を飲みすぎたため、吐血し、声も出せなくなったため、会議は取りやめになり、彼はスパルタに戻った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:37 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef