クレオパトラ7世
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「クレオパトラ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「クレオパトラ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

クレオパトラ7世フィロパトル
Κλεοπ?τρα Ζ' Φιλοπ?τωρ
クレオパトラ7世頭部(紀元前40年頃、ベルリン美術館蔵)
古代エジプト ファラオ
統治期間紀元前51年 - 紀元前30年プトレマイオス朝
共同統治者プトレマイオス12世紀元前51年
プトレマイオス13世紀元前51年 - 紀元前47年
プトレマイオス14世紀元前47年 - 紀元前44年
プトレマイオス15世カエサリオン紀元前44年 - 紀元前30年
前王プトレマイオス12世
次王アウグストゥスローマ皇帝
ファラオ名 (五重称号)

ホルス名:  Wer(et) neb(et), neferu akh(et) seh[1]














翻字: wr(.t)-nb(.t)-nfr.w Ax(.t)-zH

翻訳: The great Lady of perfection, excellent in counsel



ホルス名(2):Weret, tut en ites








翻字:wr.t-twt.n-it=s
翻訳:The great one and the (very) image of her father























誕生名: Qlupadra netjeret meret ites[1]




















翻字: qlwpdrA, nTr.t-mr(.t)-it=s[1]

翻訳: The goddess Cleopatra, who is beloved of her father







配偶者プトレマイオス13世
プトレマイオス14世
マルクス・アントニウス
子女プトレマイオス15世カエサリオン
アレクサンドロス・ヘリオス(英語版)
クレオパトラ・セレネ2世
プトレマイオス・ピラデルポス(英語版)
プトレマイオス12世
クレオパトラ5世/6世もしくは別の女性
出生紀元前69年
アレクサンドリア
死去紀元前30年(満39歳没)
アレクサンドリア
埋葬地不明。タップ・オシリス・マグナ神殿?
クレオパトラの墓?
記念物ハトホル神殿
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クレオパトラ7世フィロパトル(ギリシア語: Κλεοπ?τρα Ζ' Φιλοπ?τωρ, ラテン語: Cleopatra VII Philopator, 紀元前69年 - 紀元前30年[注釈 1]古代エジプトプトレマイオス朝ファラオ(女王)

一般的に「クレオパトラ」と言えば彼女を指すことが多く、プトレマイオス朝の最後の女王で、ガイウス・ユリウス・カエサルマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られる[3]。王朝自体がアレクサンドロス3世の部下プトレマイオス1世による支配から始まったため、クレオパトラもギリシア系である[4]

「クレオパトラ」は、古代ギリシア語クレオパトロス(父の栄光)の女性形である。「絶世の美女」として知られる。ただし、クレオパトラの肖像は治世当時、アントニウスが発行したとされている硬貨に横顔が残されているのみであり、この評価は後世の作り話だとの説がある(#人物節を参照)が、妹のアルシノエ4世の復元図から姉のクレオパトラも美しかったとする説もある。

なお、アレクサンドリアを襲った365年のクレタ地震のため、当時の史料は残っておらず、プルタルコススエトニウスら後世の歴史家による記録に負うが、その正確性には疑問が残る[3]
出自紀元前32年頃鋳造された銀貨。左がクレオパトラ、右が裏面のアントニウス

父は紀元前80年 - 紀元前58年および紀元前55年 - 紀元前51年のファラオであるプトレマイオス12世(アウレテス)。プトレマイオス朝末期の王家の系図に不備があるため、母は特定できていない。

クレオパトラ5世[5]、クレオパトラ6世[6]、あるいは氏名不詳の女性の説がある。クレオパトラ5世はプトレマイオス12世のきょうだいまたはいとこであり、ベレニケ4世を産んだことは分かっているが、クレオパトラが生まれた紀元前69年頃以降の記録がない。

クレオパトラ6世は紀元前58年にプトレマイオス12世がエジプトから追放された後にエジプトを統治した人物であるが、5世と同一人物とする説と5世の長女とする説がある。ストラボンはプトレマイオス12世の娘をベレニケ4世、クレオパトラ7世、アルシノエ4世としており[7]、前説の場合これと一致する。後説はポルピュリオスの記述によるもので[8]、この場合プトレマイオス12世の追放に関連したため系図から抹消されたと考えられる。

他の人物として、歴史家ヴェルナー・フスは、紀元前69年頃にプトレマイオス12世はクレオパトラ5世と離婚してメンフィスの有力な家系の女性と結婚しており、この女性がクレオパトラ7世の母としている[9]

弟にプトレマイオス13世プトレマイオス14世がおり、何れもクレオパトラと結婚して共同統治を行っている。
生涯
即位までのエジプトの状況

共和政ローマはエジプト産の穀物を必要としており、セレウコス朝シリアの攻撃を受けたプトレマイオス6世がローマに助けを求めて以降、プトレマイオス朝はその影響下に入っていた[10]。エジプトは当時有数の小麦生産地であり、その販売をプトレマイオス朝が独占していた。後のアウグストゥス時代には、毎年ローマ市の4ヶ月分を賄っていたという。更にはパピルスガラス織物生産地でもあった。これらのことから、プトレマイオス朝は当時世界でも最も裕福であったと予想する学者もいる[11]

プトレマイオス11世は、紀元前80年ルキウス・コルネリウス・スッラによって玉座に上ったものの同年中に民衆に殺害され、11世の従兄弟でクレオパトラの父であるプトレマイオス12世がローマに無断で即位した。12世は地位の安定のためグナエウス・ポンペイウスを頼ったが、直接介入を渋られたため、紀元前60年三頭政治が始まると、その一角であるカエサルを買収し、やっと正式に王位が認められた。しかしこの買収にかかった費用を増税でまかなったため、紀元前58年に反乱が起こり、ポンペイウスを頼ってローマ市へ亡命した[12]。このとき一人の娘を伴ったとされ、その場合クレオパトラである可能性を主張する近年の研究者がいる[13]。(アテネで発見された石碑に刻まれた"Liviaの王女"についての文面があり、それが若きクレオパトラである可能性を主張するもの。)

アレクサンドリアではクレオパトラ6世やその死後ベレニケ4世が摂政の座についたが、紀元前57年、ローマで12世の復位計画が立てられた。これをポンペイウス派が行う陰謀もあったものの頓挫し、結局紀元前55年シリア属州担当プロコンスル(前執政官)[14]アウルス・ガビニウスと共にアレクサンドリアに舞い戻った12世は、ベレニケ4世を処刑し復位した。しかしながら、亡命中の生活費と政界工作費で莫大な借金を背負うことになった[15]。この戦いに参加した、若きマルクス・アントニウスはベレニケ4世の夫であるアルケラウスの戦死の際に、王に相応しい葬いをしたとして評価された。この時期に、クレオパトラとアントニウスは出会っているという説もある。ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ『アントニウスとクレオパトラの出会い』(1740年代ナショナル・ギャラリー (ワシントン)
即位

紀元前51年、クレオパトラが18歳の時に父が逝去すると、父の遺言によって弟のプトレマイオス13世と共同で王位に就いた[16]

プトレマイオス朝はギリシア系であったが、紀元前217年ラフィアの戦い以降、エジプト人の存在感が増し、ギリシア人のエジプト化が進んでいた。一方、歴代王は統治に無関心で、エジプト人による反乱も起っていた。クレオパトラはエジプト人との宥和のため、自らエジプト文化を取り込もうとしていたとも考えられている[17]プルタルコスによれば、彼女の声は甘く楽器のようで、多数の言語を自在に操り、これまでの王たちとは違ってエジプト語も習得していたという[18]。クレオパトラは古くから民衆に親しまれていたイシスと同一視して描かれることもあり、そのことからも、宥和政策を採っていたことが推測される。プトレマイオス2世の妻アルシノエ2世がイシスとして描かれていた前例があり、それを再現したのではないかとも考えられている[19]
ローマ内戦「ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)」も参照.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

紀元前49年3月3日、キケロよりアッティクスへ先日の君の手紙からすると、まだ彼らが会談して和解する可能性を信じているようだね。しかしその可能性は低いと思う。もし会談があったとしても、ポンペイウスがなんらかの協定を結ぶとは思えないんだよ。—キケロ『アッティクス宛書簡』8.15.3[20]

この頃にはカエサルとポンペイウスの対立は避けられないものになっていた。紀元前49年1月1日にカエサルがその軍団を解散しなければ追放処分にすることが元老院で決議されていたが、カエサルはこれを無視して軍を率いてルビコン川を渡った。ポンペイウスはローマ市を捨て、さらに両執政官と共にギリシアへと渡っていった[21]アッピアノスによれば、レバント(東部地中海沿岸地方)のほぼ全ての国がポンペイウスを支援し、中には王自ら参戦する国もあったという。クレオパトラも60隻の船を供出したが、戦闘には参加しなかった[22]。ポンペイウスはデュッラキウムに本陣を据えて軍勢を集め、一方のカエサルはヒスパニアのポンペイウス派を潰して回り、ローマ市へ帰還すると翌年の執政官に選出された[23]


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