市章
位置
クルジュ=ナポカの位置
位置
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クルジュ=ナポカ(ルーマニア語: Cluj-Napoca, ラテン語: Claudiopolis)は、ルーマニア北西部の都市。「クルジュ」は「クルージ」とも表記する[1]。クルジュ県の県都で、ルーマニア国内の教育・文化・工業の中心のひとつ。トランシルヴァニア地方の中心部、ソメシュル・ミク川の渓谷に位置し、ブカレストから約480kmの位置にある。ブカレスト、ヤシに次ぐルーマニア第3の都市。コロジュヴァール(ハンガリー語: Kolozsvar)、クラウゼンブルク(ドイツ語: Klausenburg)という名前でも有名。 クルジュ=ナポカへの人間の居住は先史時代にさかのぼる。2世紀初めローマ帝国がダキアを征服すると、トラヤヌス帝はローマ軍の宿営地をおき、ナポカ(Napoca)と命名した。ナポカには軍人以外も多く定住するようになり、ハドリアヌス帝のとき、自由都市(municipium)に格上げされ、ムニキピウム・アエリウム・ハドリアヌム・ナポカと命名された。のちにおそらくマルクス・アウレリウス帝のとき、植民市に格上げされた。ポロリッセンシス
歴史
ハンガリー王ラースロー4世は、1275年、トランシルヴァニアにいたザクセン人に対し、かつてのローマ都市ナポカの近くに植民するよう勧めた。この入植地はドイツ語でクラウゼンブルク Klausenburg と命名された(クラウゼは峠を意味する古い語で「峠の城」の意)。ルーマニア語のクルジュは「クラウゼ」に由来するとも、さらに地名自体ラテン語の 'clusum'(閉じた)に由来するとも、スラブ語のクリューチ(鍵) klju?(ハンガリー語 kulucs)に対応するとも推測されている。clusum 説はこの街が丘に囲まれていることに関係あると考えられている。またこの街に住んだハンガリー人は街をコロジュヴァール Kolozsvar と呼んだ。
1316年、クルジュは都市としての特許をカーロイ1世から得た。街は急速に発展し、ジギスムント(ジグモンド)王のとき、聖ミカエル大聖堂が建てられた。15世紀にザクセン人とハンガリー人の住民の数が等しくなると、ハンガリー王マーチャーシュ(1440年クルジュ生まれ)は、首席判事がザクセン人とハンガリー人から交互に出されるよう命令を出した。
1541年、クルジュはトランシルヴァニア公国の一部となった。公国の首府はアルバ・ユリアにおかれたが、クルジュはトランシルヴァニア公国の文化と宗教の中心となった。1581年、ステファン・バートリがイエズス会の学校をクルジュに建てた。1545年から1570年の間、多くのザクセン人がユニテリアンの信仰のために街を離れたが、オスマン帝国とハンガリー王国の戦争で、さらにザクセン人などドイツ系住民の人口は減少することになった。かわってハンガリー人の人口が増え、クルジュはハンガリー人の貴族と知識階級の活動の中心都市となった。