クルム伊達公子
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伊達公子
Kimiko Date


伊達公子
基本情報
フルネームKimiko Date
国籍 日本
出身地同・京都府京都市
生年月日 (1970-09-28) 1970年9月28日(53歳)
身長163cm
体重53kg
利き手右
バックハンド両手打ち
ツアー経歴
デビュー年1989年
引退年1996年 (1回目)
2017年 (2回目)
ツアー通算14勝
シングルス8勝
ダブルス6勝
生涯通算成績634勝410敗
シングルス450勝268敗
ダブルス184勝142敗
生涯獲得賞金$3,988,378
4大大会最高成績・シングルス
全豪ベスト4 (1994)
全仏ベスト4 (1995)
全英ベスト4 (1996)
全米ベスト8 (1993・94)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪ベスト8 (1992)
全仏2回戦 (1993・2011)
全英3回戦 (2011)
全米ベスト4 (2014)
国別対抗戦最高成績
BJK杯ベスト4 (1996)
キャリア自己最高ランキング
シングルス4位 (1995年11月13日)
ダブルス28位 (2015年1月19日)
獲得メダル

女子 テニス
アジア大会
1994 広島シングルス
2010 広州シングルス
2010 広州団体

■テンプレート  ■プロジェクト テニス
パン・パシフィック・テニス2008

伊達 公子 (だて きみこ、Kimiko Date、1970年9月28日 - ) は、日本の元女子プロテニス選手。京都府京都市上京区出身。WTAランキング自己最高位はシングルス4位[1]、ダブルス28位。WTAツアー通算でシングルス8勝 (日本選手歴代2位記録)、ダブルス6勝を挙げている。

アジア出身の女子テニス選手として、史上初めてシングルス世界ランキングトップ10入り、日本選手21年ぶりのグランドスラムシングルスベスト4、日本女子選手初の全仏オープンシングルスベスト4・ウィンブルドン選手権シングルスベスト4進出者。

4大大会での女子シングルスベスト8入り6回は日本女子選手歴代最多記録である。また、準決勝進出3回は歴代2位の記録である。すべての4大大会でベスト8入りした最初の日本女子選手でもある。全豪オープン勝利 (オープン化以降)・ウィンブルドン3回戦進出の最年長記録、WTAツアーシングルス優勝・全仏オープン勝利の歴代2位の年長記録を保持している。2010年10月にWTA史上初の40歳以上でトップ10の選手に勝利を記録した。
人物

「ライジング・ショット」の名手として、世界的に有名な選手である。これは、相手の打ったボールが自分のコートでバウンドした直後の上がり端を打ち返す、非常に高度な技術である。世界トップ選手へと躍進し始めた頃の伊達は、“ライジング・サン”(日の出)と呼ばれた。

2008年の現役復帰後の所属はエステティックTBC

本来は左利きであるが、子供の頃に日本の習慣に従って右利きに直された。そのため、テニスの試合でも相手選手がバックサイド(左側)に打ってきたボールを左打ちする場面がしばしば見られた。日常生活でも、サインの時などに左手を用いることがある。

大津市立瀬田南小学校大津市立瀬田中学校(在校時バレーボール部)、園田学園高等学校卒業。

2001年にドイツ人レーシングドライバーのミハエル・クルムと結婚。結婚当初はクルム公子としたが、家庭裁判所での姓の変更を経てクルム伊達公子となった(国際結婚であるため夫婦別姓が可能)[2]2016年9月26日にミハエル・クルムとの離婚を発表した[3]

2022年1月に5年ほど交際を続けてきた男性と入籍をしたことを自身の52歳の誕生日である同年9月28日にSNSにて公表した[4]
選手経歴
アマチュア選手としての活動

6歳のとき、京都市北区にあるテニスクラブ「セブンスリー」で、両親が健康管理のために行っていたテニスに初めてふれる。滋賀県大津市に転居後、京都市山科区にてデ杯監督竹内映二の父親である竹内穣治がオーナーを務める「四ノ宮テニスクラブ」でレッスンを積む。中学校時代には「滋賀県テニス選手権」で優勝した。

高校時代には、兵庫県尼崎市にあるテニスの名門校・園田学園高等学校で光国彰監督の指導を受けた。1988年インターハイでシングルス、ダブルス、団体優勝の3冠獲得を達成する。
プロ選手としての活動

高校卒業後の1989年にプロ転向。同年、「サントリー・ジャパン・オープン」でWTAツアーにデビューし、岡本久美子との準々決勝まで進出した。全仏オープン4大大会にデビュー。予選3試合を勝ち上がり、本戦2回戦に進出した。ウィンブルドン全米オープンでも本戦へ出場した。女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップ(現フェドカップ)の日本代表選手に初選出され、西ドイツ・チームとの2回戦でダブルス戦に起用された。

1990年全豪オープンで初の4回戦進出を果たした。3回戦で第11シードのパム・シュライバーを破って注目を集めたが、前年度準優勝者のヘレナ・スコバに 4-6, 3-6 で敗退した。

1991年、8月中旬の「バージニア・スリムズ・オブ・ロサンゼルス」大会で予選から勝ち上がり準優勝した。準決勝で当時世界ランキング3位のガブリエラ・サバティーニを破る大金星を挙げ、決勝では当時の女王モニカ・セレシュに挑戦した。全日本テニス選手権の女子シングルスで初優勝を果たした。

1992年、2月に東京の「東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント」で、当時世界ランキング5位のアランチャ・サンチェス・ビカリオを破った。3月末の「リプトン国際選手権」4回戦でシュテフィ・グラフと初対戦した。全仏オープンで初めて4大大会のシード選手になり、4回戦に進出した。全日本テニス選手権で2連覇した。この年の活躍により、WTAアワードの「最も上達した選手賞」(Most Improved Player of the Year) に選出された。

1993年、全米オープンで初の4大大会ベスト8に進出した。この4回戦で、当年度のウィンブルドン準優勝者ヤナ・ノボトナを破った。
1994年 グランドスラムベスト4

1994年、1月にオーストラリアの「ニュー・サウスウェールズ・オープン」で海外の大会で初優勝した。日本女子選手として史上初の世界ランキングトップ10入りした。直後の全豪オープンで初の4大大会ベスト4進出を果たしたが、準決勝でグラフに 3-6, 3-6 で完敗。全米オープンで2年連続ベスト8入り。日本人選手として初めて女子テニスツアー年間最終戦の「バージニア・スリムズ選手権」の出場権を獲得し、準決勝まで進出した(当時のバージニア・スリムズ選手権は、世界ランキング16位以内の選手のみに出場資格が与えられた)。
1995年 世界ランキング4位

1995年、2月の東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントで初優勝。その決勝戦ではリンゼイ・ダベンポートを圧倒した。リプトン国際選手権で準優勝。この大会では決勝でグラフに完敗したが、準決勝でガブリエラ・サバティーニを 1-6, 1-5 の土壇場から逆転し、1-6, 7-6, 7-6 で逆転勝利を収めた。この年は全仏オープンで日本人初のベスト4進出を達成するが、準決勝でアランチャ・サンチェス・ビカリオに 5-7, 3-6 で敗れた。敗れたものの、この準決勝はテレビ東京系の地上波でゴールデンタイムの午後9時から放映された。11月に自己最高の世界ランキング4位を記録する。年間最終ランキングもシュテフィ・グラフコンチタ・マルティネスアランチャ・サンチェス・ビカリオに次ぐ4位に輝いた。日本プロスポーツ大賞殊勲賞を受賞した。
1996年 引退

1996年4月27日 - 28日、東京・有明コロシアムで開かれた女子国別対抗戦・フェドカップの「ワールドグループ」1回戦でドイツと対戦し、28日の試合で女王シュテフィ・グラフを 7-6, 3-6, 12-10 で破る大金星を挙げた。1996年7月4日 - 5日の2日間にわたり、ウィンブルドン準決勝でグラフと最後の対戦をする。第1セットはグラフが 6-2 で先取したが、第2セットを伊達が 6-2 で取り返したときに試合が日没順延となり、翌日に持ち越された第3セットはグラフが 6-3 で取ったため、日本人選手初の4大大会決勝進出はならなかった。アトランタ五輪でも女子シングルスのベスト8に進出し、アランチャ・サンチェス・ビカリオに惜敗した。しかし8月25日、アメリカサンディエゴで開かれた「トーシバ・クラシック」決勝戦でサンチェスを 3-6, 6-3, 6-0 で破り、WTAツアー7勝目を挙げた。

同年9月24日に現役引退を宣言した。WTAツアー年間最終戦の「チェイス選手権」2回戦で、当時16歳のマルチナ・ヒンギスに 1-6, 2-6 で敗れた。世界ランキング8位での引退だった。
その後

2000年2月6日 - 8日にかけて、シュテフィ・グラフの「引退世界ツアー」で日本の対戦相手に指名され、東京体育館名古屋レインボーホール大阪城ホールの3会場でエキシビション・マッチを行った。

2001年12月1日、ドイツ人レーシングドライバーのミハエル・クルムと結婚した。結婚当初は「クルム公子」としたが、家庭裁判所に姓の変更を申し出て「クルム伊達公子」となった。国際結婚であるため、夫婦別姓が可能だった。選択的夫婦別姓制度の導入について賛同し、「結婚する2人が考え、同姓にしたければする、別姓を名乗りたければ名乗る。それが理想」と述べている[2]

2008年3月15日、東京・有明コロシアムにてシュテフィ・グラフ、マルチナ・ナブラチロワとともにエキシビション・マッチを行い、ここでは伊達が2試合とも勝利を収めた(当初はサバティーニが参戦予定だったが欠場。代わりにナブラチロワが参戦し、伊達と初めての対戦となった[5])。
現役復帰
2008年2008年、東京有明国際女子オープンに優勝し、トロフィーを受け取るクルム伊達公子

2008年4月6日、現役復帰を決意したことが報じられた。4月7日に復帰記者会見を行い、12年ぶりにツアープレーヤーとして再びコートに立つことを表明した。37歳にしてプロへ復帰した理由を「世界と戦うためではなく、若い選手へ刺激を与えるため」と語り、当時の本名の「クルム伊達公子」でプロ登録した。

同年4月27日、岐阜市岐阜メモリアルセンターにある「長良川テニスプラザ」で開催された「カンガルーカップ国際女子オープン」のシングルス予選で現役復帰する。3戦全勝で予選を突破し、本戦1回戦では藤原里華、準々決勝では中村藍子を破り、決勝まで勝ち進んだが、タマリネ・タナスガーンタイ)に敗れて準優勝に終わった。15歳のジュニア選手・奈良くるみと組んだダブルス決勝では、ニコル・タイセン(オランダ)&メラニー・サウス(イギリス)組を破って優勝した。

同年6月15日、東京有明国際女子オープンシングルス決勝で、主催者推薦で出場の18歳秋田史帆を 6-3, 6-2 で破り、シングルスでのプロ復帰後初優勝を果たした。同年7月12日、日本サッカー協会(JFA)理事に就任した。


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