クルムバッハ
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紋章地図
(郡の位置)

基本情報
連邦州:バイエルン州
行政管区:オーバーフランケン行政管区
郡:クルムバッハ郡
緯度経度:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯50度06分29秒 東経11度27分20秒 / 北緯50.10806度 東経11.45556度 / 50.10806; 11.45556座標: 北緯50度06分29秒 東経11度27分20秒 / 北緯50.10806度 東経11.45556度 / 50.10806; 11.45556
標高:海抜 345 m m
面積:92.77 km2
人口:

25,724人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:277 人/km2
郵便番号:95326
市外局番:09221
ナンバープレート:KU, EBS, SAN
自治体コード:

09 4 77 128
行政庁舎の住所:Marktplatz 1
95326 Kulmbach
ウェブサイト: ⇒www.stadt-kulmbach.de
首長:インゴ・レーマン (Ingo Lehmann)
郡内の位置

地図

クルムバッハ (ドイツ語: Kulmbach, ドイツ語発音: [ˈk?lmbax][2]) は、ドイツバイエルン州オーバーフランケン行政管区にあるクルムバッハ郡に属する大規模郡都市であり、同郡の郡庁所在地である。

バイロイトの北西、白マイン川沿いに位置している。この街はビール粗挽きソーセージ(ブラートヴルスト)、それにプラッセンブルク城で知られている。城内には世界最大の人形コレクションを誇る錫人形博物館がある。
地理
市の構成

本市は、公式には76の地区 (Ort) からなる[3]。このうち小集落や孤立農場などを除く集落を以下に列記する。

アイヒヒ

バウムガルテン

ブライヒ

ブルクハイク

ドンナースロイト

フォルストラーム

フランケンベルク

ゲスマンスロイト

グラーフェンドブラハ

ヘルラス

ヘーファーエンガー


カッチェンロイト

カウエルンブルク

キルヒロイス

クルムバッハ

レーエンタール

ロイヒャウ

レーザウ

マンゲルスロイト

メルケンドルフ

ニーデルンドブラハ

オーバードルンラハ


オーバープルバッハ

オーバーツェトリッツ

ザイデンホーフ

ウンタードルンラハ

ウンタープルバッハ

ウンターツェトリッツ

ヴァイアー

ヴィッケンロイト

ヴィントシェンハイク

ツィーゲルヒュッテン


歴史

西暦900年頃には、現在のシュピーゲル地区に小さな集落があった。この地は林業の拠点であると同時に、マイン川渡河に対する防衛の前線拠点であった。この地は後にシュヴァインフルト伯の手に渡った。

クルムバッハの名は、1028年から1040年頃に書かれたアルクィン聖書に「Kulma」として記載されており、これが最も古い史料である。この名前は、この地を流れ下る小川の名前(Culmin-aha, Culmna)に由来する。しかし、この小川は、後に誤解からKohlenbach(コーレンバッハ、炭の川)と改名されてしまった。

シュヴァインフルト伯家の断絶に伴い、クルムバッハは女性相続者ギーゼラによってディーセン=アンデクス家のディーセン伯アルノルトのものとなった。ディーセン伯はさらにクルムバッハの周辺地域をも手に入れ、12世紀の前半に最初のプラッセンブルク要塞と現在「オベーレシュタット」(上の町)と呼ばれている市場および教会を建設した。アンデクス家は、1180年神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によって帝国諸侯に採り上げられ、ヴェネツィアトリエステの間に所領マラノ(現在のイタリアウーディネ県マラーノ・ラグナーレ)を与えられてメラニア公となった。1231年頃、クルムバッハは都市権を獲得した。現在ではその所在地が分からなくなってしまった古いプラッセンブルク要塞の代わりに、公爵は、クルムバッハにそびえるベルクシュポルン(シュポルン山)上に新しい城を建設した。最後のメラニエン公オットー2世が1248年に子供を遺さずに亡くなり、メラニア公爵家は断絶した。プラッセンブルク城

長年にわたる相続争いの後、1260年、プラッセンブルク城主、すなわちクルムバッハの領主にテューリンゲンのオーラミュンデ伯が就いた。オーラミュンデ伯は新しいプラッセンブルク城を完成させ、ヒンメルクロン修道院を創設した。しかし最後にはこの城と町を借金の担保にしてしまった。1340年に最後のオーラミュンデ伯が亡くなると、クルムバッハとプラッセンブルク城は、契約によりホーエンツォレルン家一門のニュルンベルク城伯のものとなった。この後17世紀まで、プラッセンブルク城は城伯の宮廷所在地、あるいは後にはホーエンツォレルン家のクルムバッハ侯領(ブランデンブルク=クルムバッハ侯領、1604年以降はブランデンブルク=バイロイト侯領ともいう)の首都であった。

バンベルクニュルンベルク、エーガー(現在のチェコヘプ)、ホーフ及びライプツィヒを結ぶ古い通商路沿いという地の利からこの町は貿易が盛んで、織物、フスティアン織り、染色、絹刺繍などのツンフトが形成された。


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