クルブ・ナシオナル・デ・フットボール
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クルブ・ナシオナル・デ・フットボール

原語表記Club Nacional de Football
愛称Tricolores(トリコロール
Bolsos(ポケット)
Bolsilludos(太っ腹)
Albos(白)
Decano(長老)
クラブカラー   
   
   
創設年1899年
所属リーグプリメーラ・ディビシオン
所属ディビジョン1部(2024シーズン)
ホームタウンモンテビデオ
ホームスタジアム
グラン・パルケ・セントラル
収容人数38,000[1]
代表者 アレハンドロ・バルビ[2]
監督 アルバロ・レコバ
公式サイト公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

クルブ・ナシオナル・デ・フットボール(スペイン語: Club Nacional de Football, スペイン語発音: [kluβ nasjo?nal de ?futbol])は、ウルグアイモンテビデオをホームタウンとするスポーツクラブ。特にサッカーチームが有名であるが、他にも多くの競技チームを保有している[3]。通称はナシオナル・モンテビデオ(Nacional de Montevideo)。
概要

ウルグアイの首都モンテビデオを本拠地としている。ホームスタジアムは、第1回ワールドカップ・ウルグアイ大会の開幕戦の会場にもなったエスタディオ・グラン・パルケ・セントラル。ナシオナルと呼ばれるクラブは世界中に存在するため、都市名を加えてナシオナル・モンテビデオと呼ばれることが多い。

2019シーズン終了時点で、アマチュアリーグ時代・プロリーグ時代の通算で47回のリーグ優勝回数を誇る。リーグ優勝50回(前身であるCURCC時代の5回を含む)のペニャロールとライバル関係にあり[4]スーペルクラシコと呼ばれるペニャロールとの対戦はラテンアメリカで最も歴史のあるダービーマッチである[5]

コパ・リベルタドーレスでは3回(1971, 1980, 1988)優勝している。同大会の出場回数は、ペニャロールと並んで歴代最多タイである。インターコンチネンタルカップでも1971年、1980年、1988年にそれぞれ優勝しており、一度も敗れることなく3回優勝した史上初のクラブとなった。南米王者と北中米カリブ海王者が対戦するコパ・インテラメリカーナでは2回(1972, 1989)優勝している[6]。ペニャロールはこの大会のタイトルを獲得していないが、それはこの大会が不規則開催であったためである。

これまでに、137個の国内タイトル、22個の国際タイトルを獲得している。国際タイトルのうち、9個は南米サッカー連盟(CONMEBOL)もしくは国際サッカー連盟(FIFA)によって主催されたもので、13個はアルゼンチンサッカー協会(AFA)とウルグアイサッカー協会(AUF)の共催によるものである[7]
歴史
クラブ創設(1899年)

南米にはヨーロッパ出身の移民労働者によって創設されたサッカークラブが多く、ライバルのペニャロール(1913年まではCURCC)もまたイギリス人労働者によって創設されたクラブである。一方、ナシオナルは、旧来からモンテビデオに住むウルグアイ人が中心となって創設した、南米初のクリオーリョのためのクラブである[8]。なお、当時のウルグアイの人口はわずか93万人であり、首都モンテビデオの人口29万人の半数以上がウルグアイ国外出身者であった[8]

1899年5月14日、ウルグアイAC(Uruguay Athletic Club)とモンテビデオFC(Montevideo Futbol Club)が合併してクルブ・ナシオナルが創設された[9]。ウルグアイの独立指導者ホセ・アルティガスが掲げた3色旗に由来する白・青・赤をクラブカラーと定め[10]、赤色をメインに青色も用いたユニフォームをデザインした。ヨーロッパ人によって運営されるクラブが多数を占める中、クリオーリョによるクラブの結成は悲願であった。

1899年6月18日、インテルナシオナルとの間でクラブ初試合となる親善試合を開催した[8]。1900年7月15日には、後にスーペルクラシコとなるペニャロールとの初対戦が行われた。
アマチュアリーグ時代(1900年-1931年)

1900年、ヨーロッパ人によって運営される4クラブ(アルビオンFC、CURCC、ドイチャーFK(Deutscher FK)、ウルグアイ・アトレティック(上述のウルグアイACとは別クラブ))によってウルグアイサッカー協会が設立され、国内リーグが開幕した。ナシオナルもリーグへの加盟を申請したが、クリオーリョ系のクラブということで参加を拒否された。しかし、ナシオナルの親善試合における傑出した成績が評価されてアルゼンチンリーグに招待されたことを受け、リーグに所属するヨーロッパ系の4クラブは、ナシオナルの申請を受け入れざるを得なくなった。リーグ創設2年目となる1901シーズンに、ついにナシオナルは国内リーグ参加を果たした。以来、一世紀超にわたり一度もリーグ脱退や2部降格することなく現在に至っている。

翌1902シーズンには国内リーグ初優勝を遂げた。同じ年、赤色だったユニフォームが白色に変更された。1903年9月13日、ウルグアイ代表アルゼンチン代表との親善試合を行い、アルゼンチン代表を相手に3試合目にして初勝利(スコアは3-2)をあげた。この時のウルグアイ代表のメンバーは完全にナシオナルの選手だけで構成されていた。前年に続き1903シーズンもリーグ戦を制した。2シーズン続けて無敗での優勝であった。ナシオナルの選手たちは1900年前後に新しく持ち込まれたプレースタイルを具現化し始めており、従来よりも肉体的なコンタクトを減らし、より創造的で敏速な連係プレーやドリブルなどを多用した。マガリーニョス・ピッタルーガはナシオナルについて以下のように述べている。イギリス系のクラブのプレーは、純粋で標準化されたイギリスのスポーツの美学に則って行われた。ポジション変更が少ないプレー、ロングパスの多用、強烈なシュート、肉体の強さを活かしたプレーなどである。選手の肉体自体が武器となり、攻撃的にも守備的にもプレーする。(中略)ナシオナルはイギリス系のクラブに比べて小柄で機敏な選手で構成される。(中略)肉体の接触を捨て、自身の創造性に従ったプレーを選択する。彼らはドリブル、スピードのあるショートパス、ダッシュを行い、常にピッチを走り続ける[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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