クルブ・ウニベルシダ・ナシオナル
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クラブ・ウニベルシダ・ナシオナル

原語表記Club Universidad Nacional, A.C.
愛称Pumas(ピューマ
Los Universitarios (大学関係者)
La Universidad (大学)
Los Felinos (ネコ科)
Auriazules (黄金と青)
Los de Pedregal (ペドレガル(英語版)の男たち)
クラブカラー    金色
   
創設年1954年
所属リーグリーガMX
所属ディビジョン1 部
ホームタウンメキシコシティ
ホームスタジアム
エスタディオ・オリンピコ・ウニベルシタリオ
収容人数58,445[1]
運営法人 メキシコ国立自治大学
代表者 レオポルド・シルバ・グティエレス
監督 アントニオ・モハメド
公式サイト公式サイト

ホームカラーアウェイカラーサードカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

クラブ・ウニベルシダ・ナシオナル(スペイン語: Club Universidad Nacional A.C.)は、メキシコの首都メキシコシティに本拠地を置くサッカークラブである。リーガMX(1部)に所属している。プーマス・デ・ラ・UNAM(Pumas de la UNAM)、UNAMプーマス、または単にUNAM、プーマスという呼称で知られている。
概要

メキシコ最大の大学であるメキシコ国立自治大学(Universidad Nacional Autonoma de Mexico、略称はUNAM)を設立母体とするクラブであり、メキシコで最も人気があるクラブのひとつである。当初は国立自治大学の学生で構成されるアマチュアクラブだったが、やがてプロクラブ化してメキシコ・サッカーリーグの下部リーグに参戦した。国内大会では、プリメーラ・ディビシオンで7回、コパ・メヒコで1回、カンペオン・デ・カンペオーネスで2回優勝している。国際大会では、CONCACAFチャンピオンズカップで3回、コパ・インテラメリカーナで1回優勝しており、コパ・スダメリカーナでは準優勝の経験がある。

プーマスは下部組織での育成システムに定評があり、ウーゴ・サンチェス、ルイス・エンリケ・フローレス、クラウディオ・スアレスルイス・ガルシアアルベルト・ガルシア・アスペホルヘ・カンポスヘラルド・トラードエフライン・フアレスエクトル・モレノパブロ・バレーラなどのメキシコ代表選手を輩出している。
歴史
アマチュア時代(1930年代-1940年代)

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}20世紀最初の10年間には、国立自治大学の学生にもっとも人気のあったスポーツはアメリカンフットボールだったが[要出典]、次第にサッカーもキャンパス内に浸透していった。1927年、大学で学生部長を務めていたルイス・チコ・ゴエルネはプロサッカーリーグの地区協会に嘆願書を送り、初めてプーマスのプリメーラ・フエルサ(メキシコ連邦区アマチュアリーグ)加盟を試みたが、CDマルテが選ばれてプーマスの嘆願書は拒否されている。1940年代までに、グスタボ・バス・プラーダ学生部長はレアル・クルブ・エスパーニャの選手だったロドルフォ・ムニョス(ブッチ)に将来的なプーマスの代表としての役割を課した。ムニョス新監督は学部生や教員などからなる新チームを組織し、学内での大会で好成績を残した。ムニョスは13年間監督を務め、後のプロクラブとしての成功の礎を築いた。
セグンダ初参戦(1950年代)

1943年にはメキシコで全国リーグ(リーガ・マジョール)が開始され、1954年8月にはセグンダ・ディビシオン(当時2部、現3部)のメンバーとして受け入れられた。加盟はナボール・カリージョ学生部長と後援者のギジェルモ・アギラール・アルバレスの支援で達成されたものであり、アルバレスは学生部長によってクラブの会長に任じられた。9月12日に行なわれたCFモンテレイ戦がプロクラブとしての初試合となった。わずか3年間でのプロクラブ転向は簡単ではなく、クラブを再構築できるようにいったんセグンダ・ディビシオンを離脱するという特別措置を要求した。プロ化の過程は1年以内に完了し、エクトル・オルティス監督が就任して経営陣が組織された。
プリメーラ初昇格(1960年代)

セグンダ・ディビシオン加盟から8年後の1961-62シーズン終了後、ついにプリメーラ・ディビシオン(1部)昇格を果たした。昇格プレーオフではクルブ・カタルーニャ・デ・トレオンと対戦し、シウダ・ウニベルシタリアでの試合に5-1で勝利した。スタンドで昇格を祝っていたサポーターもピッチに乱入し、選手を肩車して昇格を祝った。試合翌日にはイグナシオ・チャベス学生部長からも祝福の言葉を受け取った。この時の監督はオクタビオ・ビアルであり、選手にはオメーロ・ビジャール、ラウール・チャネス、ホセ・アントニオ・ロドリゲス(ラ・エスパトゥーラ)、アルフレード・エチャバッリ、ホセ・ルイス、カルロス・グティエレス、アルフレード・センテーノ(ティト)、ホセ・ルイス・レデスマ(エル・チャンゴ)、アントニオ・サマーノ、ホルヘ・ガイタン、ギジェルモ・バスケス、ホセ・ルイス・ゴンサーレス(ラ・カラーカ)、ロレンソ・ガルシア、カルロス・カルデロン・デ・ラ・バルカ、マヌエル・ロドリゲス(マノロ)、エドムンド・ペレス(エル・ポリ)、グスタボ・クエンカ(エル・ガト)などが在籍していた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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