クルト・フォン・シュライヒャー
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ドイツ国政治家クルト・フォン・シュライヒャーKurt von Schleicher
1932年撮影
生年月日 (1882-04-04) 1882年4月4日
出生地 ドイツ帝国
プロイセン王国
ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル
没年月日 (1934-06-30) 1934年6月30日(52歳没)
死没地 ドイツ国
プロイセン自由州
ノイバーベルスベルク(ポツダム近郊)
出身校プロイセン陸軍士官学校
プロイセン陸軍大学
前職陸軍軍人
(名誉陸軍歩兵大将)
所属政党無所属
称号名誉陸軍歩兵大将
二級鉄十字章
ホーエンツォレルン家勲章 剣付騎士十字章
配偶者エリザベート・フォン・ヘニング
ドイツ国
第14代首相
内閣フォン・シュライヒャー内閣
在任期間1932年12月3日 - 1933年1月28日
大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク
プロイセン自由州
第29代首相
内閣フォン・シュライヒャー内閣
在任期間1932年12月3日 - 1933年1月28日
大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク
プロイセン自由州
第2代総督 (国家弁務官)
内閣中央政府による
直接統治
在任期間1932年12月3日 - 1933年1月28日
大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク
ドイツ国
第4代 国防大臣
内閣フォン・パーペン内閣
フォン・シュライヒャー内閣
在任期間1932年6月1日 - 1933年1月28日
大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク
ドイツ国
初代国防省大臣官房長
内閣第2次ミュラー内閣
第1次ブリューニング内閣
第2次ブリューニング内閣
在任期間1929年2月1日 - 1932年6月1日
大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク
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クルト・フォン・シュライヒャー
所属組織

ドイツ帝国陸軍


プロイセン王国陸軍
ヴァイマル共和国陸軍(Reichsheer)
軍歴1900年 - 1932年
最終階級 名誉陸軍歩兵大将
除隊後ドイツ国首相
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クルト・フェルディナント・フリードリヒ・ヘルマン・フォン・シュライヒャー(ドイツ語: Kurt Ferdinand Friederich Hermann von Schleicher, 1882年4月4日 - 1934年6月30日)は、ドイツ陸軍軍人政治家。最終階級は名誉陸軍歩兵大将。第14代ドイツ国首相、第2代プロイセン自由州国家弁務官、第4代国防大臣などを歴任。
概要

ヴァイマル共和政の時代、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領やヴィルヘルム・グレーナー国防相からの信任を背景に職業軍人ながら「政治将軍」として巨大な政治的権力を振るう。1932年6月にはフランツ・フォン・パーペン内閣を擁立し、彼自身も同内閣の国防相として入閣した。しかし後にパーペンを見限り、同内閣を崩壊させた。その後、自ら首相となるも、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーとパーペンの協力によりシュライヒャー内閣は打倒され、1933年1月30日にはヒトラーを首相、パーペンを副首相とするヒトラー内閣が誕生した。その後は引退生活を送ったが、1934年6月30日に「長いナイフの夜」事件において親衛隊により夫人と共に殺害された。
経歴
前半生

ドイツ帝国領邦プロイセン王国ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルに陸軍士官の息子として生まれる[1]。フォン・シュライヒャー家はブランデンブルクの旧家であった[2]

1896年から1900年にかけてベルリンのグロス・リヒターフェルデ (de:Gros-Lichterfelde) にあった名門のプロイセン陸軍士官学校 に在学した[1]少尉時代のシュライヒャー(1900年)

1900年3月、少尉に任官し近衛第3歩兵連隊第5中隊に配属される。そこで同僚のオスカー・フォン・ヒンデンブルクパウル・フォン・ヒンデンブルクの息子)と親しくなる[2][3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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