クルト・ツァイツラー
Kurt Zeitzler
生誕1895年6月9日
ドイツ帝国
プロイセン王国 ブランデンブルク州ゴスマー
死没 (1963-09-25) 1963年9月25日(68歳没)
西ドイツ
バイエルン州キームガウ地方ホーエンアシャウ
所属組織 ドイツ帝国陸軍
ヴァイマル共和国陸軍
ドイツ陸軍
軍歴1907年?1945年
最終階級 陸軍上級大将
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クルト・ツァイツラー(Kurt Zeitzler, 1895年6月9日 - 1963年9月25日)は、ドイツの陸軍軍人。陸軍上級大将。第二次世界大戦中に参謀総長を務めた。 ブランデンブルク州ゴスマー(現ハイデンブリック市)の牧師の家庭に生まれる。第一次世界大戦勃発直前の1914年3月23日にドイツ陸軍へ入隊し、テューリンゲン第4歩兵連隊に配属された。大戦勃発後の1914年12月に中尉に昇進し、連隊副官で敗戦を迎える。 ヴァイマル共和国では10万人に削減されたヴァイマル共和国軍に残り、第18歩兵連隊で大隊副官や小隊長を務め、1928年1月に大尉に昇進。1929年に第3師団参謀に配属され第9歩兵連隊中隊長を兼務し、1934年に少佐に昇進。1937年1月に陸軍総司令部に配属され、中佐に昇進。1939年4月に第60歩兵連隊長に任命され、6月1月に大佐に昇進。 第二次世界大戦勃発とともに第14軍第22軍団参謀長となり、ポーランド侵攻に従軍。1940年3月にエヴァルト・フォン・クライストのA装甲集団参謀長となり[1]、西方電撃戦、バルカン戦線 (第二次世界大戦)、バルバロッサ作戦に従軍。1941年5月18日、戦功により騎士鉄十字章を授与される。同年10月、第1装甲軍参謀長に任命され、開戦初頭にソ連軍を分断して快進撃を続けた[2]。ツァイツラーは部隊の進撃を維持するため兵站確保に最善を尽くし、上官であるクライストから称賛を受けた[2]。 1942年2月に少将に昇進し、4月にはゲルト・フォン・ルントシュテットのD軍集団参謀長に任命される。同年9月24日に歩兵大将に昇進し、アドルフ・ヒトラーと対立して更迭されたフランツ・ハルダーの後任として陸軍参謀総長に任命される[3]。ツァイツラーの参謀総長就任は、彼の報告が楽観的な調子に満ちていることをヒトラーに買われてのもので、序列からいえばきわめて異例な人事だった。彼は組織運用と兵站確保に能力を発揮したが、最終的にヒトラーの無理難題に悩まされることになった。 参謀総長就任直後のスターリングラード攻防戦においては、ツァイツラーはスターリングラードに包囲されたフリードリヒ・パウルスの第6軍の脱出を具申し、心労のあまり飢える第6軍の兵士たちと同量の食事しか摂らず痩せ細ったが、ヒトラーは最後まで第6軍の撤退・救出を拒み、マルティン・ボルマンから彼がダイエット中と説明されたため、「ダイエット」をやめるよう命じたという。しかし、第6軍の降伏後、モスクワおよびレニングラード前面からの後退を勧めたツァイツラーの具申は受け入れられた。 1944年1月30日にアルフレート・ヨードルと共に上級大将に昇進。しかし、ツァイツラーが担当する東部戦線の戦局は日に日に悪化し、クリミア半島を失いクルスク攻勢も成功しなかった。また、西部戦線でも6月6日、連合軍がノルマンディー上陸作戦を決行した。強気のヒトラーとは対照的に、戦線維持に悲観的だったツァイツラーは自らの参謀長解任を申し出たが、ヒトラーに拒まれた[4]。1944年6月9日、ベルヒテスガーデンのベルクホーフ山荘でヒトラーと戦況を協議していたツァイツラーは発作で倒れた(神経衰弱に陥ったツァイツラーが無断でベルクホーフを立ち去ったため、病気ということにされたともいう)。翌月10日にツァイツラーは解任され、後任にハインツ・グデーリアンが任命されるまでアドルフ・ホイジンガーが職務を代行した。また、この6月には、ツァイツラーはヒトラーに向かって、戦争はもう敗北しかないため、終戦に向けて行動しなくてはならないと言った[5]。 参謀総長解任と同時期に、副官のギュンター・スメント 終戦後はイギリス軍の捕虜となり、ニュルンベルク裁判に証人として出廷した後、1947年2月に釈放。釈放後はアメリカ陸軍戦史研究部ドイツ支所
経歴
ドイツ軍に入隊
ドイツ軍参謀総長
晩年