ドイツ国の政治家クルト・ダリューゲKurt Daluege
1936年のクルト・ダリューゲ
生年月日1897年9月15日
出生地 ドイツ
プロイセン王国
シュレージエン州
クルト・ダリューゲ
Kurt Daluege
所属組織 ドイツ帝国陸軍
親衛隊
秩序警察
軍歴1916年 - 1918年
1930年 - 1945年
1942年 - 1945年
最終階級
クルト・マックス・フランツ・ダリューゲ(ドイツ語: Kurt Max Franz Daluege[1], 1897年9月15日 - 1946年10月24日)は、ドイツの警察高官、内務官僚、政治家。秩序警察 (OrPo) 初代長官、第2代ベーメン・メーレン保護領副総督。親衛隊 (SS) の高官であり、最終階級は親衛隊上級大将 (SS-Oberstgruppenfuhrer) および警察上級大将 (Generaloberst der Polizei)。
経歴
前半生(ドイツ語版)クロイツブルク(ドイツ語版)にて中級公務員パウル・ダリューゲ (Paul Daluege) とその妻ラウラ(Laura, 旧姓Wecker)の四男として誕生[2]。兄にアルトゥール、エーリヒ(ドイツ語版)[# 2]、ヨアヒム[注釈 1]がいる。。ブラスラウとフランクフルト・アン・デア・オーダーの小学校 (Volksschule) を卒業した後、フランクフルト・アン・デア・オーダーの実科ギムナジウムへ入学し、1916年1月に戦時中のアビトゥーアのノートアビトゥーア(ドイツ語版)に合格してギムナジウムを卒業[4]。
第一次世界大戦中の1916年1月にプロイセン王国軍の近衛歩兵連隊に入隊し、西部方面へ出征した。1917年10月25日に副曹長 (Vizefeldwebel) に昇進している。1918年4月に頭と肩を激しく負傷し、以降、ドイツの敗戦までフランクフルト・アン・デア・オーダーで入院していた。大戦中に二級鉄十字章と戦傷章黒章を受章した[4][5]。
戦後、1918年から1922年にかけてシレジアの義勇軍(フライコール)に部隊指揮官として参加し、1921年にはシレジア蜂起の鎮圧戦で活躍した[6]。一方、1921年から1924年にかけてベルリン工科大学に在学し、建築エンジニアとしての勉強をした。1922年から1923年にかけてロスバッハ義勇軍(ドイツ語版)に参加し、「ドイツ民族防衛及び抵抗連合会(ドイツ語版)」にも入会している[4]。 1922年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党するが、ミュンヘン一揆の失敗で党が解散したため、一時離れた。その後の1924年、「大ドイツ労働者党
ナチス突撃隊