クルターグ・ジェルジ
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この項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、印欧語族風にジェルジュ・クルターグと表記することもあります。

クルターグ・ジェルジュ
Kurtag Gyorgy
2002年5月
王立音楽アカデミーにて
基本情報
生誕 (1926-02-19) 1926年2月19日(93歳)
 ルーマニアルゴジ
職業作曲家ピアニスト
バルトーク
マリンシュテイン
ウェーベルン

ポータル クラシック音楽

クルターグ・ジェルジュ(Kurtag Gyorgy [?kurt???? ??or?], 1926年2月19日 ルーマニアルゴジ Lugoj(旧ハンガリー・ルゴシュ) - )は、ルーマニア出身のハンガリー人作曲家ピアニスト、室内楽の教授。バルトーク、マリンシュテイン、ウェーベルンらの影響を受けており、表現主義においてウェーベルンの後継者と言われている。
目次

1 略歴

2 作曲作品の演奏

3 作風

4 主な作品

5 家族

6 脚注

7 外部リンク

略歴

1940年ティミショアラでカルドシュ・マグダにピアノ、エイシコヴィツ・マックスに作曲のレッスンを受け始める。1946年ブダペストに移りフランツ・リスト音楽院に入学する。ヴェレシュ・シャーンドルファルカシュ・フェレンツに作曲、カドシャ・パールにピアノ、ヴェイネル・レオに室内楽を学ぶ。当初は尊敬するバルトークに教わることを望んでいたため、バルトークの訃報は彼に大きな衝撃を与えた。リゲティ・ジェルジュとは、1945年9月初旬に行なわれたブダペストのリスト音楽院の作曲専攻の入学試験で出会い、その友情は生涯にわたった。1951年にピアノと室内楽で卒業、1955年に作曲の学位も得る。

1950年代前半、ハンガリーではスターリン主義政権によりバルトークの後期作品は禁止されており、50年代後半までシェーンベルクや中後期のストラヴィンスキーの音楽が禁止されていた。この束縛を逃れるため、ハンガリー動乱後の1957年から1958年にかけてパリに留学し、ダリウス・ミヨーオリヴィエ・メシアンの授業に出席した。この頃、ウェーベルン、サミュエル・ベケットの演劇から影響を受け、自身の音楽的思考へ深化させる。この結果が、1959年にブダペストに帰ってから作曲された『弦楽四重奏曲Op.1』である。また、この時期にハンガリー人で芸術心理学者のマリアンヌ・シュタインと共に働く。彼は、最も深い影響を受けた人物として、少年時代テメシュヴァール(ルーマニア地名 ティミショアラ)で指導を受けたカルドシュ・マグダとマリアンヌ・シュタインの名をあげている。『弦楽四重奏曲Op.1』と後の『カフカ断章』はマリアンヌ・シュタインに献呈されている。

1958年から1963年までブダペストのバルトーク・ベーラ音楽高校、1960年から1968年までハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団のトレーナーを務める。1967年、フランツ・リスト音楽院の教授となる。最初はピアノ、後に室内楽を教える。教え子にはシフ・アンドラーシュコチシュ・ゾルターンらがいる。1971年、Deutscher Akademischer Austauschdienst (DAAD) の奨学金を得て西ベルリンに滞在する。1973年、ハンガリーのKossuth賞受賞、1985年フランス政府から芸術文化勲章を授与される。
作曲作品の演奏

1981年にパリでチェンゲリ・アドリエンヌ(ソプラノ)、シルヴァン・カンブルラン(指揮)、アンサンブル・アンテルコンタンポランにより初演された『亡きR.V.トリュソーヴァのメッセージ / リンマ・ダロスによる21の詩』でハンガリー国外でも知られるようになり、世界的に高い評価を受けるようになった。この曲以降も声楽・合唱曲はクルターグにとって重要な分野の一つとなっている。

1986年に音楽院を退職するが、1993年までいくつかのクラスで教えた。1993年から1995年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のレジデンス作曲家を務め、1994年『石碑 Op.33』はクラウディオ・アバド指揮で初演された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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