クリュニーのユーグ
トスカナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長ユーグ(左)に、教皇へのとりなしを頼むハインリヒ4世を描いたミニアチュール(11世紀、作画:クリュニーのユーグ)
クリュニー修道院長
他言語表記フランス語:Hugues de Cluny
生誕1024年5月13日
仏スミュール=アン=ブリオネ(現在のソーヌ=エ=ロワール県)
死没1109年4月28日(85歳)
仏ソーヌ=エ=ロワール県、クリュニー
崇敬する教派ローマ・カトリック教会、ベネディクト会
記念日4月29日
守護対象熱病患者
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クリュニー修道院第三聖堂
クリュニーのユーグ(Hugues de Cluny, 1024年5月13日 - 1109年4月28日)もしくはユーグ・ル・グラン(Hugues le Grand)、ユーグ・ド・スミュール(Hugues de Semur)は、フランスのクリュニー修道院長で、中世初期の修道会を代表する最も権威的な人物の一人である。カトリック教会の聖人として崇拝されている。 スミュール卿ダルマス1世の長男であり、父はユーグが騎士になることを望んでいたが、本人はそれに従わず、勉学に勤しみ1037年にシャロン(フランス語版
生涯
翌年、ユーグはカノッサにて教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が対立した際、ハインリヒ4世の代父として「叙任権闘争」での調停役を務めた。しかし、成功には至らなかった。この逸話は有名である。クリュニー修道院第三聖堂
修道院長がユーグの代であった頃、クリュニー修道院はその栄華を極め、またユーグは最も印象的とされるクリュニー修道院第三聖堂建設の責任者でもあった。この建築活動は、1053年から1065年にかけてカスティーリャ・レオン王国の摂政であったフェルナンド1世が制定した毎年の国勢調査によって賄われていた。
この資金は、1077年にアルフォンソ6世によって一度再確認され、1090年に再々確認された。この金額はフェルナンドが1,000オーレイ(aurei)とし、1090年にはアルフォンソ6世が倍にした。
クリュニー修道院にとって、この金額は王や平民から受け取った中で最も多額の年金であり、後にも先にもそれを超える額が受給されることはなかった。
アルフォンソ6世の国勢調査により、ユーグは1088年に第三の堂々とした修道院の聖堂(聖ペテロとパウロの聖堂、または「クリュニー修道院第三聖堂」)の建設に取り組むことができた。
クリュニー修道院第三聖堂は長さ187メートルのこの建物は、拝廊と5つの身廊、待合室と放射状の礼拝堂を備えた細長い聖歌隊席、二重の翼廊、5つの塔が設備されている。16世紀のバチカン市国にサン・ピエトロ大聖堂が再建されるまでは、ヨーロッパで最大の宗教建築物であった[1]。