ソビエト連邦の政治家クリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов
クリメント・ヴォロシーロフ(1937年)
生年月日 (1881-02-04) 1881年2月4日
出生地 ロシア帝国、ヴェルフニェー・エカテリーノスラフ県
没年月日 (1969-12-02) 1969年12月2日(88歳没)
死没地 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ
所属政党ロシア社会民主労働党
ロシア共産党(ボリシェヴィキ派)
ソビエト連邦共産党
称号ソ連邦英雄(2回)
社会主義労働英雄(1回)
レーニン勲章(8回)
赤旗勲章(en
クリメント・ヴォロシーロフ
Климент Ворошилов
ヨシフ・スターリン(左)と(1935年)
所属組織赤軍
軍歴1917年 ? 1960年
最終階級ソ連邦元帥
墓所クレムリン城壁共同墓地
署名
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党の集会で女性党員たちと談笑する。(1935年)
クリメント・エフレモヴィチ・ヴォロシーロフ(ロシア語: Климе?нт Ефре?мович Вороши?лов、ラテン文字転写の例:Kliment Yefremovich Voroshilov、1881年2月4日 - 1969年12月2日)は、ソビエト連邦の軍人、政治家。ソ連邦元帥、ソ連国防大臣、国家元首に当たる最高会議幹部会議長を歴任した。ソ連邦英雄(2度)、社会主義労働英雄(1度)。 1881年2月4日(ユリウス暦1月23日)、ロシア帝国時代のウクライナのエカテリーノスラフ県ヴェルフニェー村(現在のルハーンシク州ルィスィチャーンシク)にて、ロシア人の鉄道労働者の家庭に生まれる[1]。工場で働いていたが、1896年、ストライキに参加したことで解雇され、ストライキを扇動したために逮捕されるも釈放。1905年にボリシェヴィキに入党し、ストックホルムで開かれたロシア社会民主労働党第4回大会に代表として出席する。このとき、ウラジーミル・レーニンやヨシフ・スターリンと知り合う。1907年には、ロンドンの第5回大会にも出席し、ミハイル・フルンゼ、ミハイル・カリーニンらとも知り合う。同年に逮捕され、アルハンゲリスク州に追放されるも1913年に恩赦となった。 1917年ロシア革命が勃発すると、ルガンスク会議議長に選出される。同年11月、チェーカーの仕事に移ったフェリックス・ジェルジンスキーに代わって、ソビエト臨時政府であるペトログラードソビエト(Petrograd Soviet 1918年、第1ルガンスク社会主義パルチザン支隊を編成。この後、程なくして第5ウクライナ軍司令官に任命されたが、ドイツ軍とクラスノフのコサック軍に敗れる。その後、第10軍を編成し、ツァーリツィン(のちのスターリングラード)防衛を組織化する。この間に、スターリンと緊密な関係を築くことになった。ヴォロシーロフは、軍事会議でスターリンを擁護することで知られていた。しかしながら、スターリンがツァーリツィンから去ると、ヴォロシーロフはレフ・トロツキーによって罷免された(トロツキーは、「ヴォロシーロフとは、フィクションである」と評した(Ворошилов есть фикция)。 ロシア内戦およびポーランド・ソビエト戦争でのヴォロシーロフは、南部前線における指揮官として採用された。スターリンとともに政治将校として勤務していたヴォロシーロフは、主に南ロシアの農民から成る第一騎兵軍の士気に対する責任を負った[2]。コーマロウの戦争(Battle of Komarow
生涯
生い立ち
ロシア革命と内戦
大粛清