公用語[1]ロシア語
クリミア・タタール語
ドイツ語
首都シンフェロポリ
首相
1918年 - 1918年マツェイ・スリケヴィチ
クリミア地方政府(クリミアちほうせいふ、ロシア語: Крымское краевое правительство)とは、1918年から翌年にかけてクリミア半島に存在した自治政府である。クリミア辺境政府(クリミアへんきょうせいふ)とも呼ばれる[2]。 1917年のロシアでの十月革命を受けて、クリミア・タタール人によって結成された政府はクリミア人民共和国の独立を宣言した。この国家は翌年初めにボリシェヴィキに占領され、タヴリダ・ソビエト社会主義共和国に取って換えられた。だが4月末になると、今度はドイツ帝国に援助されたウクライナ人民共和国軍のクリミア攻勢によりボリシェヴィキは駆逐され、同年6月25日に最初のクリミア地方政府が設立された。 この政府では、リプカ・タタール人のマツェイ・スリケヴィチ
成立
独立宣言は「クリミアの人々のために」出され、国家と国民のシンボルや独自の軍と通貨も作られた。ボリシェヴィキによって廃止されていた私有財産も復活した。しかし地方政府は完全にドイツ占領軍の支配下にあった[1]。7月にスリケヴィチ以下の政府代表団は、ウクライナからのクリミアの独立の保障と、ドイツとの交易関係の樹立を求めてベルリンを訪問した。ドイツ政府もまた、ドイツとオスマンの保護の下でのクリミア・ハン国の再建を提案したが、それらが実現することはなかった[1]。 ヤルタの新聞によるインタビューに対し、スリケヴィチは次のように語った[1]。私の政府はウクライナのためにでも、その敵対者のためにでもあるのではない。望むのは友好関係のみだ。以前に私がキエフで新たな信任について話したように、私が思いがけずウクライナ政府から受け取った電報には、私が「有害な老いぼれ」だとウクライナ語で書かれていた。私は自分が「老いぼれ」ではなく地方政府の長であると公共の言葉であるロシア語で答えた。この私の行為はキエフで「外交関係の破壊」だと報じられた。我々クリミア政府はキエフに経済協定を求めたが、それには何の返答もなかった。 ウクライナ人民共和国とウクライナ国はクリミアを支配下に置こうとし、9月と10月にはウクライナと広い自治権を持つクリミアによる連邦の形成に向けた交渉もなされた。だがドイツ帝国の保護の下にクリミアはウクライナからは独立したままだった。 ドイツ軍がクリミアから撤退するや、かねてから不評を買っていた[4]スリケヴィチは11月25日に権力の座を追われ、その後はクリミア・カライム人の元立憲民主党員であるソロモン・クリム
ウクライナとの関係
第一次世界大戦後
だが、その1919年初めにはこの政府は白軍のアントーン・デニーキン率いる義勇軍(スペイン語版)との関係が悪化し、運営に支障を来たすようになった[1][4]。