クリミア半島
クリミア半島の衛星写真
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯45度18分 東経34度24分 / 北緯45.3度 東経34.4度 / 45.3; 34.4
帰属係争中.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
実効支配:
ロシア・南部連邦管区
クリミア共和国
セヴァストポリ連邦市
法律上:
国連総会決議:
ウクライナ
クリミア自治共和国
セヴァストポリ特別市
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クリミア半島(クリミアはんとう)、または単にクリミア(英語: Crimea, ロシア語: Крым, ウクライナ語: Крим, クリミア・タタール語: Къырым)は、黒海の北岸にある半島。面積は2,6844 km2[1][2]、2014年1月1日時点の人口は235万3100人[3]。 「半島」という単語を用いてクリミア半島と呼ぶ場合と、単にクリミアと呼ぶ場合がある。 クリミア半島は、英語でCrimean Peninsula、ロシア語でКрымский полуостров、ウクライナ語でКримський п?востр?в、クリミア・タタール語のキリル文字表記でКъырым ярымадасы、同じくラテン文字表記でQ?r?m yar?madas?。 クリミアは、英語でCrimea、ロシア語でКрым、ウクライナ語でКрим、クリミア・タタール語のキリル文字表記でКъырым、同じくラテン文字表記でQ?r?m。 日本語で一般的な名称となっている「クリミア」は英語のCrimea([k?a??mi??] クライミア)に由来する。 このほか、ロシア語Крым([kr?m] クルィム)またはウクライナ語Крим([kr?m] クルィム)のカタカナ表記からクルィム、ロシア語の日本語表記の異形またはドイツ語のKrim([k??m] クリム)からクリムと呼ぶこともある。 これらのヨーロッパ諸言語に基づく名称は、クリミア・タタール語を含むテュルク諸語による古くからの名称 ???? / Qirim / Q?r?m / Къырым ([q??r?m] クルム)に由来する。クルムは、もともとはジョチ・ウルス時代のクリミア半島の中心都市(現在のスタリ・クリム
名称
ヨーロッパでは、古くはギリシア語の地名Ταυρικ?(タウリケ)に由来するタウリカ、タウリスと呼ばれていた。この名前は古代にクリミア半島に居住していたスキタイ=キンメリア系民族のタウロイに由来する。ストラボンとプトレマイオスは、現在のケルチ海峡を「ボスポロス・キンメリオス」(キンメリア海峡)、タウリカの中心都市を「キンメリウム」、半島そのもの又は最東端の岬のことを「プロモントリウム・キンメリウム」(キンメリア岬)とキンメリア人と関連づけて呼んでいる[8]。
英語でのクリミア系統の名称の用例は、18世紀にクリミア・ハン国を指してクリム・タルタリー(Crim Tartary)としたものがある[9]。英語のCrimeaのつづりはイタリア語(少なくとも17世紀にはこの名称が使用されていた[10]。)由来で1780年代に使われ[11]、19世紀を通じて英語の伝統的な名称であったタウリカやタウリスに置き換わった。
ロシア語では、古名であるタウリカが、18世紀末にロシア帝国が併合したクリミア半島にタヴリダ州を設置したことで復活している[12]。タヴリダの地名はソ連以降、公式の行政地名としては用いられていないが、クリミア半島に所在する機関や団体の名称に用いられることがあり、タヴリダ国立大学、SCタフリヤ・シンフェロポリなどがある。
歴史ギリシア人の植民都市ケルソネソスの遺跡ツバメの巣(ヤルタ)。帝政末期の1912年に建設されたクリミアのランドマーク詳細は「クリミアの歴史」を参照
古代には、キンメリア人とスキタイ人の居住地であるとともに、ギリシア人の植民都市が建設された。この時代の主要都市であるケルソネソスは現在のセヴァストポリの近郊にあった。
その後、ローマ人、ゴート人、フン人、ブルガール人、ハザール人、キエフ大公国、ビザンティン帝国、キプチャク人などによる支配を受けた。13世紀にはモンゴルの征服を受けてモンゴル帝国の分枝であるジョチ・ウルスの支配下に入り、沿岸の一部がヴェネツィアとジェノヴァの統治下におかれた。
1443年から1783年まで、ジョチ・ウルスの継承政権であるクリミア・ハン国がオスマン帝国の属国となって存続した。1783年にロシア帝国のエカチェリーナ2世がクリミア・ハン国を併合した[13]。1853年から1856年にかけてはフランス、イギリス、オスマン帝国およびサルデーニャ王国の同盟軍とロシア帝国が激突したクリミア戦争の主要な戦場となった。
なおクリミア・ハン国の住民は8世紀頃にクリミア半島へ流入したテュルク系ムスリム住民を起源とするクリミア・タタール人であった。
1917年に始まるロシア内戦では、クリミアは白軍(反革命側)に占拠されていた。白軍が赤軍によって駆逐された後、クリミアはソビエト連邦の一部となり、1921年にクリミア自治ソビエト社会主義共和国が置かれた。