クリミア・タタール人
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クリミア・タタール
(q?r?mtatarlar, къырымтатарлар)
クリミア・タタール人の民族旗
クリミア・タタールの家族とムッラーを描いた絵(1862年)
(【推計人口500,000-2,000,000人】)
居住地域
 クリミア: 248,200[1]
 ウズベキスタン150,000
 トルコ1,000,000以下
 ルーマニア24,137[2]
言語
クリミア・タタール語ロシア語ウクライナ語トルコ語
宗教
イスラム教スンニ派
関連する民族
クリミア・カライム人ノガイ族ヴォルガ・タタール人

クリミア・タタール人(クリミア・タタール語: q?r?mtatarlar、къырымтатарлар、ウクライナ語: кримськ? татари、ロシア語: крымские татары)は、クリミア半島に起源を持つテュルク先住民族である。クリミア・タタール語母語とし、スンニ派ムスリムが大半を占める。

クリミアの先住民族であることを強調して、「クルムル」(クリミア・タタール語: къырымлар、q?r?ml?lar、ウクライナ語: кримц?, киримли、ロシア語: крымцы;意訳:「クリミア人」「クリミア出身者」)という名称で言及されることもある。
人口1926年クリミアにおけるクリミア・タタール人の人口(1939年)クリミアにおけるクリミア・タタール人の人口(2001年)

ロシアによるクリミアの併合宣言(2014年)直前には、ウクライナクリミア自治共和国内に24万人のクリミア・タタール人が居住していた(半島の総人口の12%)[3]

また、トルコ共和国には、アンカラエスキシェヒルを中心に、旧クリミア・ハン国からの移住者の子孫が数百万人居住しているとされ、ルーマニアブルガリアにも同様の住民が約2万7千人住んでいる。クリミアがソビエト連邦の一部であったスターリン時代、ウズベキスタンなどに強制移住させられた人々の子孫が中央アジア諸国に約15万人がいる(クリミア・タタール人追放)。
歴史
民族形成

クリミア・タタール人は、13世紀から18世紀にかけてクリミア半島を中心に南ロシアを支配したクリミア・ハン国のテュルク系ムスリム住民を起源とする。

クリミア・ハン国時代のタタールは、クリミア半島中央部を中心とするクリミア・タタールと、黒海北岸にかけて広がるノガイ(ノガイ・タタール)の二大グループに分かれており、タタール人は主に農民、ノガイ人は遊牧民であった[4]:78。

この時代のクリミア経済を支えた重要な柱にウクライナ人奴隷の貿易があり、クリミア・ハン国の宗主権下で自立的な行動を行っていたノガイ人たちは15世紀から18世紀にかけて、毎年のようにリトアニア大公国ポーランド王国の支配下に置かれたウクライナへの襲撃(英語版)を繰り返し、捕虜を奴隷としてタタール人に売却していた[4]:79。タタール人に捕らえられて売却されたウクライナ出身奴隷としては、スレイマン1世治下のオスマン帝国に奴隷として売られ、後に後宮(ハーレム)での権力争いを制してスレイマン1世の正式な皇后にまで登り詰めたヒュッレムが有名である。

現在のクリミア・タタール民族は、キプチャク系遊牧民のノガイとオグズ系のトルコ民族、南部の山岳地帯や海岸部に住む非テュルクの諸民族の子孫が混交して形成された。ノガイらテュルク系民族はクリミア半島においては北部のステップに居住し、遊牧生活をやめた後も牧畜を中心に生計を立てていたが、南部の人々はギリシャ人ジェノヴァ人ゴート系、スキタイ系、キンメリア系、ハザールなどの子孫からなる混成集団で、園芸、菜園、手工業、牧羊などで生活を営んでいた。今日のクリミア・タタール人は北部の遊牧民の末裔と南部の14世紀以降にキリスト教からイスラム教に改宗した諸民族が混交して形成され、現在も南北で別々のサブグループに分かれると考えられている[5]:74。
ロシア支配下でのクリミア・タタール人社会

1768-1774年の露土戦争の結果、1783年に、クリミアはロシア帝国に併合され、旧クリミア・ハン国の有力者層の多くは、オスマン帝国領内に亡命した。また、ロシア人、ウクライナ人をはじめとする移民がクリミアに押し寄せたため、19世紀の初めには、クリミア・タタール人はクリミア半島での少数派となる。

19世紀末には、旧ハン国の貴族階級出身のイスマイル・ガスプラリ(ガスプリンスキー)が、クリミアのバフチサライで、西洋式教育の普及運動(ジャディード運動)を開始し、クリミア・タタール人から多くの民族知識人が輩出された。
ソビエト連邦の時代
クリミア人民共和国とソビエト連邦への併合詳細は「クリミア人民共和国」、「クリミア・ソビエト社会主義共和国」、および「クリミア自治ソビエト社会主義共和国」を参照

1917年のロシア革命時には、ノーマン・チェレビジハンや、ジャフェル・セイダフメトら民族派知識人により「クリミア人民共和国」の設立が宣言されるが、ソビエト政権がこれを解散させて1921年にクリミア自治ソビエト社会主義共和国を設立させた。
第二次世界大戦と強制移住詳細は「クリミア・タタール人追放」を参照

第二次世界大戦独ソ戦)中、クリミアは戦場となった(クリミアの戦い (1941年-1942年)クリミアの戦い (1944年))。クリミアタタール人の多くが赤軍に参加させられた。

クリミア・タタール人は、チェチェン人およびイングーシ人北コーカサスの同系民族)、バルカル人カラチャイ人と同様に、ソ連政府による農業集団化の強制に反対した[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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