クリミアの歴史
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クリミア半島は、紀元前5世紀頃のギリシア人の入植から有史時代に入り、古代には「タウリカ」または「ケルソネソス・タウリカ」(Χερσ?νησο? Ταυρικ? 「タウリカ半島」の意)と呼ばれていた。これ以来、スキタイ人(スキタイ=キンメリア人タウロイ人)、ギリシア人ローマ人ゴート人フン人ブルガール人ハザール人キプチャク人など様々な民族によってクリミアは征服と支配を受けてきた。

中世には、一部がキエフ・ルーシに、別の一部が東ローマ帝国に支配されたこともあったが、モンゴルの征服を受けてモンゴル帝国の分枝であるジョチ・ウルスの支配下に入った。また、この時代には沿岸の一部がヴェネツィアジェノヴァの統治下に置かれた。これらの諸勢力は15世紀にクリミア・ハン国オスマン帝国の支配下となり、18世紀まで続いた。

クリミアの近代は、1783年のロシア帝国によるクリミア・ハン国併合に始まる。1921年にはソビエト連邦の下にクリミア自治ソビエト社会主義共和国が設置されたが1945年に廃止され、代わって置かれたクリミア州は1954年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管された。ソビエト連邦の崩壊に伴い1991年にウクライナが独立すると再び自治共和国の地位を得たが、2014年クリミア危機でウクライナ国内法を無視する形で一方的に独立を宣言。続いてロシアによるクリミアの併合が宣言され両国による領有権をめぐる対立が続いている。

ロシア連邦はクリミアでの軍備拡張との要塞化、クリミア・タタール人の弾圧などを進め、2022年ロシアのウクライナ侵攻ではウクライナに対する攻撃の策源地として利用した[1]
先史時代

クリミアに人類が居住し始めた最初の考古学的痕跡は旧石器時代中期に遡る。キイク・コバ洞窟のネアンデルタール人はおよそ8万年前のものである[2]。より後のネアンデルタール人はスタロセレ(4万6000年前)とブルハン・カヤ3号(3万年前)でも発見されている[3]

初期の現生人類はクリミア山脈のブルハン・カヤ洞窟(シンフェロポリの東)で発見された。この化石はおよそ3万2000年前のもので、遺物はグラヴェット文化に属する[4][5]最終氷期の再寒冷期において、黒海北岸の一帯は後の氷期の終焉とともに北ヨーロッパに再拡散することになる人口の避難地として重要な地域の一つであった。この時代には、何度かの亜間氷期を挟んで気温は緩和し、再寒冷期の開始後にははっきりと上昇しつつあったものの、周氷河地形の低地ステップ東ヨーロッパ平原に広がった。人類の居住地帯の密度はクリミア地域にほとんど集中しており、約1万6000年前まで増加を続けていた[6]黒海洪水説の支持者によると、クリミアは紀元前6千年期に黒海の水位が上昇することによって初めて半島として形成された。

クリミアにおける新石器時代の始まりは農業を伴わず、代わって陶器製造の開始、石器製造技術の変化、および豚の家畜化に関連づけられている。クリミア半島における生産の最古の証拠は銅器時代のアルドゥチ・ブルン遺跡から発見されており、紀元前4千年紀の中頃である[7]

紀元前3千年紀にはクリミアにヤムナ文化が到達した。クルガン仮説でいう原インド・ヨーロッパ文化の後期に相当すると推定される。青銅器時代初期には、東イラン語群の話者であるスキタイがクリミアに定着した。クリミア半島南部にはスキタイ人によって駆逐されたキンメリア人の一派である可能性のあるタウロイが居住していた。紀元前6世紀か7世紀には、ミレトス人によって最初のギリシア文明植民都市が建設された。
古代紀元前5世紀に黒海北岸に建設されたギリシア人の植民都市
ギリシア時代詳細は「タウリカ」および「ボスポロス王国」を参照

タウリカギリシア語: Ταυρ??, Ταυρ?δα)は、古典古代におけるクリミア半島の呼称である。古代ギリシア人はタウロイ人からタウリカの地名を名づけた。タウロイはクリミア半島南部の山岳地帯にのみ居住しており、タウリカの名も当初は半島南部のみに使われたが、のちに半島全体の名称に拡大した。

ギリシア神話において、タウリカはミケーネの王女イピゲネイアの物語の舞台として登場する。父王アガメムノンによって女神アルテミスの生贄にされた王女は、これを憐れんだ女神によって救い出され、タウリカに送り込まれる[8]:19。イピゲネイアはアルテミス神殿の神官となり、冷酷なタウリカのトアス王によって、捕らえられた外国人を生贄に捧げるよう命じられることになる。また別の歴史家の記述では、タウリカの民タウロイは野蛮な儀式と海賊行為で知られ、この半島のもっとも古い居住者である。タウロイの地とギリシア人殺しに関する説は、ヘロドトスの『歴史(ヒストリアイ)』にも記されている。

紀元前5世紀に、ギリシア人は黒海沿岸に植民を広げ始めた。その中からヘラクレアドーリア人は今日のセヴァストポリ市に港湾都市ケルソネソスを、ミレトスイオニア人はテオドシア(現在のフェオドシヤ)とパンティカパイオン(現在のケルチ)を建設した。

紀元前438年に、パンティカパイオンのアルコン(執政官)に就任した新植民者のスポルトコスがキンメリオス・ボスポロス(キンメリア海峡、現在のケルチ海峡)の王を称し、この王国はアテネと緊密な関係を結んで麦、蜂蜜その他の商品を供給した。スポルトコス王朝最後の王パイリサデス5世は、遊牧民スキタイの圧力を受け、紀元前114年にポントスの王ミトリダテス6世の庇護を求めた。ミトリダテスの王子ファルナケス2世は、ローマ共和国と父王との戦いでローマ側についたことにより、紀元前63年にローマのポンペイウスによってボスポロス王として承認された。紀元前15年にボスポロスは再びポントス王国の支配下に戻されたが、もはやローマの属州同然であった。
ローマ時代詳細は「ローマ時代のクリミア(英語版)」および「ボスポロス王国」を参照


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